井上のルワンダ旅行記

ルワンダ旅行記を楽しみにお読みいただいている皆様

 編集の手違いがあり、これまで掲載してきた記事が表示されなくなりました。

どのように修復すべきかと苦慮しましたが、
この機会に、新しく加えた章を最初に表示する形式から、
前回までの章の後に掲載する形式に変更いたします。

新しい章は今回から最後に追加していく形式となりますので
ご了承ください 。

どうぞこれからも、お楽しみにお読みください。(2017年10月記)

※2017年11月8日 第12章 掲載


ルワンダ旅行記


1.旅の始まり


 まだ冬のコートの要る3月下旬、
関空から一人、旅立った。
カタールのドーハで乗り換えケニアのナイロビで乗り換え、
もうすでに15時間以上、
いやというほど飛行機に乗っていた。
そして、飛行機の通路側に座っていた私が
ケニアから飛び立った飛行機の窓越しの景色を見て、

「えっ! サファリ!?」 


と思わず言ったら、隣の窓際の美しい黒人女性が


「イエ~ス!」


と言って私を見てにっこりした。
そこはアフリカのケニアの草原の上空だった。


私は、ナイロビ空港がサファリの隅にあるなんて
全く知らなかった。
寝ぼけまなこで、
ブジュンブラ経由ルワンダ行きに乗り継いだが、
飛行機が上昇したとき、
意表を衝かれて興奮してしまったのだ。
そしてうっかり声を出してしまった。


でもこれが私には幸運だったと思う。
旅の始まりで、今から行くルワンダという国に関して、
興味を喚起する情報を其の女性からいただくことに
なったからだ。
飛行機の中は黒人ばかりと言っても過言ではない。
アジア系?と思われる人は片手でかぞえられるくらい
しかいない。
日本人は私一人。
何語かわからない言葉がいくつも聞こえるので、
すっかり立ち往生していた私には、
少しでも言葉が通じるのは嬉しかった。
しかもルワンダについては、
十数年前に大量の虐殺が起きたということと、
子どものとき家族が虐殺される現場にいた青年の手記を
旅行直前に読んだこと(これがすごかったけど)と、
 NHKの一時間番組の情報しか知らないで
出てきてしまった。


旅行案内書で全地球をカバーしていると思っていた
「地球の歩き方」にもルワンダはなかった。
出版元にも問い合わせたがルワンダのは無いという。
地図もまったく無い。
旅行会社が、東京のルワンダ大使館からA4のパンフレット
をゲットして送ってくれた。
それには、ルワンダの国の形の図形の中に、
小さくいくつかの地名が載っているだけ。
いわば、日本の形の図形の中に、
東京と大阪と京都の文字が印刷されているだけ、
と思ってくれればいい。
地図といえばそれが地図のすべてで、
実はこれだけを頼りに2週間過ごすことになった。
おかげで何の地理的予備知識もないまま飛行機に
乗ってしまったので、
いったいどうなることやらと思っていた。
しかも公用語はフランス語だというが、
私はまったくフランス語を理解できない。
「私はフランス語が話せません」
というフランス語だけしゃべれるという変な状態だ。
だから、
たったひとりの知人R氏がルワンダの飛行場に迎えに
来てくれることだけを頼みの綱として
出てきてしまったのだ…。
だから「イエス」と短く、
私のわかる言葉!で応答してくれて、
ホント、嬉しかった。



 ごく定番の、
「どこから?」「どこへ?」などという
私のたどたどしい英語にその女性は合わせてくれて、
ゆっくりと話してくれた。
なんと其の人は私が今から行こうとしているルワンダの
政府の役人だった。
 JICA(ジャイカ)の青年海外協力隊の知人がいる
というと、
「国が日本のお世話になっている。ありがとう」
と言われた。
別に、私は単なる旅行者で、
お礼を言われる筋合いはないのだけれども、
親近感を持ってくれたようだった。
出張で隣国のブジュンブラに行くのだそうだ。
小さいときからウガンダで育ち、
家の中はフランス語だったのでフランス語のほうが
よく話せるが、
英語で教育を受けたので英語も大丈夫だそうだ。
子供のときはキニアルワンダ語で話していたので、
それもできるという。
(この三つの言語については、
私はその後何回も考えることになった。)




関空を出るときに、
誰かにあげれば喜ばれるもしれないと思って、
私の好物の羽二重餅の小箱を三つも買ってきていた。
それを開けて、
「食べますか?」
というとすぐつまんで食べてくれた。
其のとたんに「
おいしい! これは何か?」
と目が輝いた。
米と砂糖で作っているというと、
ますます目が輝き、熱心にその作り方を訊く。
そして「ルワンダにも米と砂糖はある。
ならば作れるだろう。
これはルワンダでも大人気になる。
こんなにおいしい! 
「作り方を教えてくれる人を是非日本から派遣して
くれるように、JICAの知人に言ってくれ」
と熱心にいう。
彼女とブジュンブラで別れる時に一箱差し上げると、
有頂天になって、
大事そうに抱えて飛行機を降りて行った。


あとからわかったのだが、
ルワンダでは砂糖は貴重品で、
甘いお菓子は大人気なのだそうだ。


思うに、羽二重餅はひょっとしたら
外国に大々的に売り出せる商品なのかもしれない。
過去の経験でも、オイシイ! コレハナニカ?
という感じの方が多かったように思う。
材料の見当もつかず、食感は面白く、おいしい、と。



さて、彼女との話をもう少し書いてみたい。
私は質問してみた。


「日本のNHKスペシャルというテレビ番組で
ルワンダのことが放映された。それによると、
ディアスポラと呼ばれる外国から帰国した人たちを
核にして、ルワンダはIT立国として進もうとしている、
ということだった。その放映は正しいか?」

と。すると彼女は


「その取材は知っていた。その通りだ。」


という。それで私は


IT立国にルワンダはなれるとあなたは考えているか?」


と尋ねると、


「絶対になれる」


と答えた。


「その根拠は何か?」


と再び問うと、


ITは英語が主流の世界だ。 
2008年からルワンダは英語を国の正式の言語として
指定した。小学校から全部、英語で教育しているので
絶対にIT立国は成功する」


という答えだった。


この時点で私は首をかしげてしまった。
 IT立国は英語だけの問題ではないと思うからだ。
一国の公用語をフランス語から英語に変更するというのは、
短期間に出来るはずも無く、
様々な困難を伴うはずだ。
たとえば、日本である日政府が
「これからは英語の世の中だ。
来年から公用語は英語にします」
と宣言すれば、蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。
考え込んでしまうなあと思ったが、
其のとき、
彼女がまさにウガンダからのディアスポラなのだと
気がついた。
 IT立国を進めている立場だ。できないと言うわけが無い。
しかしそれにしてもその希薄な根拠が気になった。



私がルワンダに行こうと思った理由は、
この女性の話に関係がある。

旅行前にルワンダについて私が断片的に新聞で知っていた
情報は、もう14,5年前(=阪神大震災の1年位前)
のことであった。
ツチ族とフツ族が争って、親類同士、
知人同士の近隣に住む人々の間で虐殺が起こり、
その死者の数が、たった3ヶ月で100万人近い、
いや、超えているかも、というものだった。
しかもその武器はナタや棍棒という原始的なもので、
近代兵器ではないという。
ということは、国民の相当数が直接血を見る殺人者
でなければならない。
なぜそのような途方も無いことが起きたのか?
とその当時、思った記憶がある。
しかし、そんな大事件でも、
私は自分の日常に関係なければ、
表面上は忘れていた。
何しろアフリカは遠い国だ。
しかし、R氏がルワンダに行くと聞いたとき、
 R氏のことを大丈夫なの?と心配した。
そして、意識の底の方から、
なぜその大虐殺が起きたのかという疑問が
再び沸いてきたので、
R氏が其の国にいる間に訪ねようと思ったのだ。
私の歳を考えると、
こんなチャンスはもう無いかもしれないからだ。


主婦ベースだった私は、
思い立って60歳になってから臨床心理学の大学院に行き、
今は臨床心理士として仕事をしているので、
臨床心理学の周辺に居るのだが、一体この学問を学ぶと、
何ができるのだろうかと思っている。
この分野にいる私が、
そのような圧倒的な大事件に連なる過去をもっている人に
出会って、何かできるということはあるのだろうか? 
想像すらできない。
しかし何はともあれ、
予断を持たずに行けるときに行ってみようと
思ったのだった。
行動しながら考えよう、
手も足も出なくてもいいから、と思った。


 

NHKの“IT立国を目指すルワンダ”についてのテレビ番組
を見たといっても、旅行前は、
細かな事情を私は全く知らなかった。
近親同士の殺人で国民の一割もが殺される事件が
起きたとき、そのショックと憎悪感情は、
どのように処理されて、国民は、国家は、
立ちなおる事ができたのだろうか? 
とうてい刑務所にすべての犯人を入れられるような数
ではない。
政府のトップから、つまり国策として、
末端の農民や貧民まで、国民の何百万人もが関わったかも、
といわれている虐殺だからだ。
誰がその事件を終息させ、
その後に、一体どういうリーダー達がどういう政治を
すれば治まるのか、または治まっていないのか?
人々はどうやって立ち直り、
どうやって日常を過ごすことができるのか? 
疑問百出である。
一言で言えば、その国はどうなろうとしているのか? 
どうやれるのか? 
それに興味があったのだ。
出かけて、
「自分の目でみるべし」その思いだけで旅に出たのだった。





そして飛行機の彼女に出会ったのである。
多分、親が昔に難民になってウガンダに行き、
彼女はそこできちんとした教育を受けて、
国を立て直そうと帰ってきたのだろう。
“外国で高い教育を受けた人、ビジネスで成功した人、
そしてルワンダに帰ってきた人で、
今国を立て直そうとしている。
そういう人を総称してディアスポラという、”
とNHKは言っていたから。


2.みどりの大地、丘また丘


 ルワンダの首都キガリに夕方着いた。
 R氏からは、仕事で迎えに行けないときは
自分でホテルに行ってくださいと言われていたので、
フランス語のできない私は、
一人で太刀打ちできるか不安だった。
着いてみると飛行場は小さくて安心した。
案ずるより生むがやすし、とはこのことだ。
ハブ空港のドーハのようにむちゃくちゃ大きいと、
自分がどこにいるのかわからないが、
ここは小さいので大丈夫と思っていたらR氏の姿が見えた。
大安心。

 「今日、ちょうどJICAの青年海外協力隊の新メンバーの
歓迎会があるけど、参加する?」

と尋ねられて、一も二も無く

「行きたい!」

と答えて参加させてもらった。
これは偶然に歓迎会のある日に私が着いたからだが、
あとから考えると、これもとてもラッキーだった。
各地で、隊員の人たちに助けてもらうことになったのだ。
言葉の通じにくいこの国で、2週間なんとか過ごせ、
国の一端を少しは理解できたかも、
と感じたのはそのおかげだ。とっても感謝。


 その夜はキガリのホテル(中級だとのこと)
に泊まり、翌日午後R氏の働いている東部の都市に向かう。
そのためキガリのバスターミナルに行く。
ほこりっぽく、人々でごった返しており、
右を向いても左をみても外国人はほとんどいない。
バスターミナルと言っても、
バスのはいる空間はどろんこでデコボコ。
これ雨降ったらどうなるの? 歩けるの?という感じだ。


ルワンダに行った日本人に
「ルワンダには黒人はたくさんいるのか?」
と尋ねた日本人がいると聞いた。
無理も無い。
アメリカの大統領ブッシュが
「アメリカにも黒人はいるが
アフリカにも黒人はいるのか?」と言ったとか。
奴隷として黒人をアフリカから大量に連れてきた国の
大統領にしてこれだ、と苦笑いしたことがあるが、
本当の話ではないかもしれない。
しかしよく出来たジョークだ。
そう、ルワンダは100%黒人の国である。
統計の取り方で変動はあるが、
フツといわれる人々が8割強、
ツチといわれる人々が1.5割、
ピグミーでトワという人々が0.5割弱くらいだそうだ。
ツチとフツはほとんど見分けがつかないという。
日本ではツチ族、フツ族と言っているが、
本来は部族名ではないようだ。
ヨーロッパ人の植民地になるまでは、
ツチ、フツ、トワと呼ばれる人々が居た、
ということらしい。



目的地までバスで二時間半。
マイクロバスが正式のバスであり、
4人がけ20人くらいがぎゅうぎゅうで乗る。
定刻で出発。
飛行機から降りたときも驚いたが、
自分が無知だったこと、
あるいは先入観が強いことがよくわかった。
砂漠があると思っていたが、そこはみどりの大地だった!
行けども行けども、緑の丘が幾重にも連なる。
なんと美しい国!

実は2週間の滞在中、
中部・南部・東部の一部を旅したことになるのだが、
どこまで行っても平野は無く、
様々な色合いのみどりいっぱいの大地。
それは、丘・丘・丘だった。
美しい!美しい!美しい! 
何度でも繰り返したいくらい。
壮麗な風景といってもよい。
ルワンダは別名「千の丘の国」とも言われており、
アフリカのスイスとも言われているそうだ。
とても納得。
バナナの林が広がり、ユーカリの木々の葉が
銀色に気持ちよく輝き、適度な風にゆすられている。
道は、幹線道路以外は赤土の道だ。
幹線道路のほうは、地方によって少し状況は異なるが、
1980年代に政府が中国から技術者を雇って整備していて、
歩道付きアスファルト舗装の道は丘の背を二車線で走り、
中央アフリカでは一番いい道だそうだ。
そこを80キロのスピードでバスで走るのは結構快適だ。
バス停は殆ど無い。
そして窓の外には、丘のてっぺんまで、
もうこれ以上耕せないくらい続く
みどりに覆われた段々畑。
日本の夏の風景に重なる。
いつまでも見ていたい風景だ。
ルワンダは四国の1.5倍くらいの面積だという。
北部に行くと世界でも有数のゴリラのいる
森林地帯であり、火山があり、
東部に行くと野生動物のいるサバンナがあり、
南西部のコンゴとの国境に行けば原始林のある
険しい森林地帯だというが、
私の訪れたところは豊饒の土地だった。
神々の愛でしところ。


作物は、そこここにバナナのプランテーションで
実がたわわに稔り、じゃがいも、インゲン豆、
さつまいも、キャッサバ(サトイモの類)が見える。
家は適当な距離はなれて点在する。
土は赤土。
とても土壌がいいそうで、何も肥料をやらなくても、
ほらこんなにレタスができる、キャベツが、白菜が、
と青年海外協力隊のある人が畑を後日見せてくれた。
本当にレタスはびっくりするほど立派。
「何もしなくてもできるよ~」と言っていた。
でもルワンダ人はそんなに豊富に野菜は作らないようだ。
作らなくても食べていけるからか? 
しかし現金収入はあまり無いようだ。
自給自足に近い。



R氏の家に4日泊めてもらった。
R氏は、私立の大学でコンピューター使用技術を教える
仕事をしている。
彼の住んでいるところは、大学の構内だ。
一戸建て平屋で職員用の住宅だというが、これがすごい。
 3つの部屋とトイレ付き洗面所の小部屋があるが、
すべて土間だ。
部屋は結構広く、壁はブルーのペンキで塗られているが、
ベッドと机以外は何もない。
ガランとしている。
土足でそのまま入室。
一応冷蔵庫はあるが、停電があるので、
冷凍室が氷解すると水が床に滴る。
水道は無い。
雨水をためたタンクから水を汲んでくるのが
重要な家事となる。
 R氏は

「これが結構メンドイ、時間がかかる」

という。
トイレは一応概観は水洗トイレの様子をしていて
排水はするようだが、ほとんど水は自動供給されない。
バケツにためた水をコップなどで流す。
もちろん風呂は無い。
シャワー用のスペースのつもりだろうな、
という場所があるので、
そこで行水しようと思えばできるが、
湯を沸かすのがこれまた一苦労。
火元は電気コンロひとつ。湯沸しポットひとつ。
それですべて。流しは無い。
飲み水はそのまま飲めないので、
ろ過したものを必ず沸かして使う。
従って食事を作るのも一苦労。
しかしこの停電回数の多さはどうなんだ、
と思うくらい多い。
これでIT立国?とさらに私は首をかしげる。




慣れないと作業が大変だから、
R氏は私をかばってくれて、家で食事をするときは、
すべてR氏の作ってくれたものを
私は食べさせてもらっていた。
何か手伝うことがあれば手伝うよ、と言ったら、
私の仕事を考えてくれた。
それは精米技術が低いため、
お米に混じっている籾や石を選別して捨てること。
インディカ種の細長いお米だが、脱穀が悪く、
食べると必ずガジッと音がして、
口の中がジャリジャリする。
気持ちよく食べようと思ったら、
石と籾をよりわけて捨てるのは必要な仕事だ。
石・籾拾いを実際にやってみて、
これは重労働だと思った。
それらを見つけやすいように
小さな入れ物に米を小分けしながら入れ、目で見て分別。
一人分のお米をきれいにするのに1時間近くかかるのだ!
2人分で2時間! 
ルワンダ食にはお米が普通に出てくる。
その背後にこういう労働が隠れているのだ。
うなってしまった。

「これ、脱穀技術を日本から伝えたほうがいいよ~、
 JICAがなんとかしたら?」

と私はR氏を説得にかかる。R氏いわく、

「そうやなあ~、でもさ、ここ、結構人々はひまや。
人はあふれている。仕事が無い。
だから下手に脱穀技術を入れたら、
仕事を取り上げることになるかもなあ…」。

 私はまたもや唸ってしまった。
そうやなあ~という気もする。
それは人々の光景を思い出したからだ。
それは、“暇ソウ”という
 R氏の解釈を正当化する光景なのだが、次のようなことだ。

この地方都市に着いたのは日曜日だった。
地方都市と一応言うが、
日本で言えば人口おおめの山村の感じと思えばいい。
丘のてっぺんを太い舗装道路が走り、
車がかなりのスピードで走る。
バスを降りてから25分くらい歩いて
この家にたどり着いたが、
人々が舗装道路の脇の赤土の歩道を
ゆったりと歩いていた。
その数は多く、しかも、道がほぼまっすぐなので、
ずーっと見渡せる。
一目50人くらい歩いている、といえばいいだろうか。
それも携帯電話以外は何も持たず、
ぶらぶらと友人や家族や子供たちが、
ゆっくりゆっくり歩いているのだ。
最初それは日曜日だからだと考えていたが、
月曜日も火曜日も水曜日も、しかも時間を選ばない。
朝早くだろうが夕方だろうが、何時に歩いてみても、
一目50人くらいが歩いているのが常時目に入る。
ときどきたむろして談笑している。
床屋はギャラリーが一杯で、
昼も夕方も人がたくさん居る。
人々は働いているのだろうか?という疑問が頭をよぎる。
しかもめちゃくちゃ人々の性格はオープンだ。
すぐ話しかけてくるし、
しかも質問すると大歓迎されて正直に話してくれている
感じを受ける。
もっとも、ほとんどがキニアルワンダ語なので、
私はすぐお手上げ。
たまにフランス語に切り替えてくれるが、
私にはわからないとわかるとそのままになる。
まれに英語に切り替えてくれる人がいて、
そういう人はたいてい学校の先生だったり
役場の人だったりする。
昼の2時ころ話かけてきた身なりのいい女性は
小学校の先生だという。
少し話したあと尋ねてみた。

「今はお休みをとっているのですか?」

と尋ねると、

「いや、仕事の時間だ」

という。
先生なのに?という思いがあるのでさらに問う。

「授業は無いのですか?」

というと

「ある」という。

「いや、でも今、道をこうやって私と一緒に歩いていて
お仕事は大丈夫ですか?」

と尋ねると

「心配するな」

と返ってくる。

「校舎はどこ? 子供たちはどうなるんですか?」

と訊くと

「大丈夫。心配ない」

えー!まったく謎の人たちだ。
 R氏が言うには、

「みんな、ひまやねん」

ということになる。
子ども達はだいたい4時頃に下校していた。

私はこういう時間の使い方をルワンダ時間と呼んだ。
このルワンダ時間はすごくって、
 R氏も仕事だと言って出かけたにもかかわらず、
上司が出てこないので仕事にならないと言って、
昼前に帰ってきた日もあった。
ほかの隊員の方をたまたま仕事場に訪ねたときも、
「お客さんが居るなら今日は帰っていいよ、と言われた。
ラッキー!」

とか言って本当に職場放棄で、
私をほかのところに連れて行ってくれて
そのまま自宅に帰って、そのまんま過ごした。
私もラッキーなんだけど、
どうもそれはルワンダ国内では普通のことらしかった。



3.ルワンダの少年のこと




 R氏は仕事に出かけ、私がひとりで家に居たら、
小学生3,4年くらいの少年が尋ねてきて、
R氏はいるか?」というので
「留守だよ」と答えた。
それからがどうしていいかわからなくなった。
なにしろそこから先の相手の言葉がさっぱりわからない。
英語のようでもあり、フランス語のようでもあり、
でもキニアルワンダ語かもなあ? 
ああ、この国で私が一人で放り出されたら
大変なことになるぞ、と予感が走る。
そのうち体格の良い年かさの少年が加わった。
私より背が高い。
少し怖い。
いろいろ手ぶり、表情で、なんだかもう一度来るけどいいか
と言っているのだと思えたが部屋に入ろうとする。
怖さが増す。
慌てて、指を4本立て、R氏は4時ころ帰ってくるだろう、
と身振りと共に言ったら、
それは通じたらしく4時頃来るつもりになったようだ。
やれやれ、と思ったらエッグという言葉を聞き取った。
え!卵! 何、それ? 丸いやつ?
と指で卵形を作ると頷いている。
卵がなんの関係があるのか?
どうこたえたらいいか不明。

往生して、とにかくさよならの意味になる言葉を
いろいろ並べ立てた。
少年は帰っていこうとしたので、ほっとした。
するとそのときR氏が帰ってきた。私には救世主。
なにやら話してR氏がお金を渡したら彼らは帰っていった。
無心だったのか、と私は思った。
基本はキニアルワンダ語で話して、
ところどころに英語が入っているのだそうだ。
しかし、1時間くらいしてさっきの2人が卵を二個持って
現れ、R氏はをそれを受け取り、
なにやら雑談をして笑い合い、
それから少年たちは帰っていった。
無心ではなかったのだ。

少年たちに関して聞くと、
 R氏が畠を耕している近くの村の子だけど、
ときどき卵を売りに大学の中に来るので買うのだという。
「小遣いかせぎやろうなあ」という。
私が

「先にあなたはお金を渡したよね。それから1時間もして、
彼らは卵を二つだけ持ってきたけど、
結構時間があいている。
先にお金を渡してもこの国のモラルは大丈夫だ
ということなのよね」

と聞くと、

「そう。この国の人々は大丈夫。
カソリックの力が強く働いているからだと思うけど、
お金をごまかすとか人をだますとかそういうことは
ない感じだよ。」

とのこと。

他のアジアやヨーロッパ旅行の経験からは、
旅行者は鴨にされるかだまされることを
ときどき警戒しなければならないが、
この国はそんなことは無いという。
このことはその後ずっと旅行している間中、
私にもわかってきたことだった。
ずるくない、ここの人々は。
信頼していいのだ、と。
この安心感はとてもいい。
後日首都キガリで一人旅をしているときに、
片道30分のタクシー往復を交渉して乗せてもらった
ことがあったが、目的地で私が3時間過ごす間、
相手は基地に帰った。
そのときにお金を払おうとしたら、
次に迎えに来て降りるときに払ってくれれば良いという。
そして約束した時間きっちり迎えに来て
もとの場所できちんと降ろしてくれた。
カソリックの宗教の力かもしれない。

お金に関して言えば、私にはもう一つ好ましい事がある。
この国には幸い宗主国であったベルギーが、
チップという制度を持ち込まなかったらしい。
おかげでとんでもないときに
お金をせびられることはない。
インドなどへ行くと、
うっかり道を聞いただけで手を出される。
一人にチップを渡すとそこらにいた
人がわっと自分は○○をするから、
と暗にお金を要求して群がってくることさえある。
それのないルワンダは、
だから安心して町を歩く事が出来た。

チップ制度は人を卑しくすると私には感じられる。
何かをしたら褒美、ということだが、
それはやがて褒美がなければ動かないという人々を育てる。
褒美を得るためにずるくなる。
人に対して操作的になるのだ。
よく子育てで、親がこどもに勉強させるために
テストで100点取ったら100円、80点取ったら80円あげる、
などと褒美でつっているときがある。
当面小さな子供は喜んで勉強するし、
良いことのように見える。
しかし長ずるに連れてもっとお金を親からださせるために
何をすればいいかと頭を使い、
お金が欲しくないときは何もしなくていい、
家の用事でもお金をくれないのならしなくてよい、
などとおかしなことになる。
場合によっては人に対してとても操作的になり、
それは親にも向かうため親のほうがやがて困っていく。
子育て相談などの背後にそういう子育てがあることが
珍しくないことを私はよく経験する。

ルワンダの人にずるさがないのは、
チップ制度がないことも関係しているように思えるのだ。
そして滞在している間に私が理解したのは、
ルワンダで何かの定期の仕事をゲットしている人は、
おそらく日本の長時間労働に匹敵するくらい、
実に長時間まじめに辛抱強く働くということだった。





4.その少年の水事件



 ルワンダは丘の国。
だから水は丘と丘の間に谷、または湿地地帯として存在する。
しかし大きな川はそんなに見当たらない。
しかも家は段々畑の間、つまり丘の上または斜面にある。
ということは水の存在より高いところに家はあるが、
水道設備は、ほぼ無い。
となると水をどこから供給するかというと
雨水をためていてそこから汲むか、
ずっと下にある水場に汲みに行くことになる。
水は貴重なのだ。
道を歩いている大人はほとんど何も持たず歩いているが、
学校帰りでない子どもは必ず黄色いポリ容器をもって
歩いているので、
水汲みは子どもの仕事だとわかる。
水はとても重たいものだ。
 R氏から聞いた話は、水事件とも言うべきものだが、
水の貴重さとそれを得る不便さから起きた
ことなのだろうと思う。

 R氏の住んでいる大学の敷地の外には
一般の農家の人が住んでいる。
大学はガルディアンといういわば守衛さんが守っている。
とても人懐っこくあいさつしてくれて、
ニコニコしているが、その雰囲気から、
私には日本の守衛さんより権限がありそうだなあと思えた。
やはりそれは当たっていたようだ。

ルワンダには雨季と渇水期があるが、
その水事件は渇水期に起きたことだった。
ある日、R氏が歩いて宿舎に向かう途中で、
あの卵を売りに来ていた少年が、
ガルディアンに殴られ蹴られ棒で叩かれて、
かなりの怪我をしたところを目撃したという。
小学校4年生くらいの男の子を、
本当に本気で殴っていたそうだ。
聞くと、大学の中の水場に水を盗みにきた現場を
押さえたのだ、許せない、とのこと。
ペットボトル4本分くらいの容器一つなのだが・・。
その子が汲みに行くべき水場は決まっていて、
少し遠いのだそうだ。
渇水期なのでいつもの所より遠かったのかもしれない。
だからその子は、
家の近くの大学を囲む有刺鉄線の破れ目をくぐって入り、
大学の水ためタンクから水を失敬したのだ。
たしかに悪いことだけど、
あまりのガルディアンの本気の暴力に、
 R氏はショックだったという。

「ちっちゃいんやで、その子は。
言えばいけないことはわかるよ。
あんなひどい殴り方は僕にはわからない。
ショックでしばらく眠れないくらいだった」

R氏にとっては、その暴力がよほどショックだったらしく、
何回も言っていた。

 私には、まじめな国民性を感じさせられた話だった。
同時に、暴力が、
この国ではすぐ起きてしまうハードルの低さを感じた。
この二つは、この国で、あの大虐殺が実際に起きてしまう
素地であるのかもしれないと思った。

 

5.言語


 大学構内を一人で散歩していて、話しかけられたので、
下手ですが、と言いながら本当に下手な英語で答えた。
すると相手も、僕もあまりできないが・・といいつつ
英語でにこやかに話す。
私よりはるかに流暢に話し、
気持ちのいいとてもハンサムな好感の持てる紳士だった。
その後宿舎に帰ると、 
R氏が大学の中を案内しようと言ってくれたので、
喜んでついていった。
同僚などへの紹介やコンピューター室、図書館、講義室、
保健室などに案内してくれた。
建物はすべて平屋でどれも美しい。
庭も植樹に気をつけていて、きれいだ。
大学生は約3,500人で、平均年齢は30歳だという。
今、国が変わりつつあり、いい職業に就こうと思うと
学歴が非常に大切で、そのために学びなおそうとして、
一度働いた経験のある人たちが
結構入学してくるのだという。
回っていて気がついたのは、
みんなフランス語で話すということだった。
図書室の本はフランス語版の物が多い。
新しい図書はほぼ英語版だが、
これらはすべて先進国からの援助だという。
大学内の公用語は英語だと聞いていたが、
これではフランス語の方が優勢ではないか。
なんだか変だ。
そして次にR氏の上司に会った。
英語は私より少し上かなあというレベル。
変だ。英語が公用語の大学の先生でしょ? 
あの飛行機で会った政府の美しい女性は、
英語が正式の言語となったので、
 IT立国は成功すると言っていたが…。
気になったのでR氏に尋ねる。もっと驚いた。
「先般から会っている人たちはフランス語だったやろ。
みんなフランス語やねん。
政府は英語を公用語と決めたから、
大学の教員に英語を強制的に習わせているんや。
英語の級のあがった者が何名いるかによって
国からの補助金の額が違ってくる。
だから大学は必死やで。
英語の話せる教員の割合が多い大学が有利なんや。
あの上司の先生は、コンゴでフランス語で育ったので、
最初僕が来たとき英語はできなかったけど、
今は少しましになった。
あの先生も必死でやっていると思うよ。
生活がかかっているから。」
「あの先生はIT関係の方よね。
私くらいのあの英語力で授業ができるの?」
「ちょっとむつかしい。でも彼は頑張っている。
表現が難しいところはフランス語になってしまっているよ。
で、ちょっと微妙なことに気がついて、
僕はフランス語をここに来て必死で習得して
なんとか話せるようになった。
何が微妙かというと、僕は英語を話すやろ。
だから英語で授業ができてしまう。
(実際彼は電話だと20分近く話したらネイティブでない
と見破られるという)。
それはどうも上司と部下という関係ではよくないように
見えたんや。
で、上司のいる所ではフランス語で話すようにしている。
これはきっと正解だったと思う。
僕一人のときは、英語で教えて、
同じことをフランス語で言って、
必要ならキニアルワンダ語で話す。
そうしないとなかなか相手はコンピューターのことを
理解できないんや。
英語を話せる人はまだ少ないから・・・」
聞いていて、これはなかなか大変だと思った。
知識伝達以前に言葉で格闘しないといけない。
でも、ふと思い出して、
「はあ~、3ヶ国語を使うんだ。
でもさっきとっても英語を流暢に話す先生に会ったよ」
と言って見掛けの特徴を言うと、
「それは英語の先生やからや」
これには全く驚いてしまい笑い出してしまった。
なんと! いやー! あの英語の先生、
私のレベルに合わせて話してくれていたのだ。
チャーミングな筈だった。
そんな仕掛けをするなんて。
あとでもう一度彼に出会ったが、彼はゲラゲラ笑っていた。
しかし、IT立国なんて夢ではないのか? 
大学の言語レベルがこの状態だ。
あの政府の女性はこの実態を知っているのだろうか?
 NHKの取材陣はどうだったのだろう?

6.文字が無いということ


 ルワンダ人のすべてがキニアルワンダ語を話す。
ところが、 
R氏からキニアルワンダ語には文字が無いと聞いた。
1920年ごろ、ベルギーの植民地になった頃、
教会の布教が始まりフランス語が入ってきて、
フランス語による教育が始まったが
それを受けられたのはごく少数のエリート達だ。
その後、フランス語の音を借りて、
今はキニアルワンダ語の表記方法は存在する。
だから道で見かける看板は、
たいてい三つの言葉が並んで書かれている。
そして国として公式の言語は、
植民地になってからはフランス語だったが、 
2008年から英語になった。
しかし、地方に行けばキニアルワンダ語しか話せない
人々が普通だという。 
R氏が私に質問する。
「文字が無いということはどういうことが起きると思う?」
想像で私は、
「情報が得られない、だから知識・技術を手に入れにくい、
すると経済的格差が生まれる。
う~ん、他にもたくさん不利だと思う。
複雑な表現はできないし、
思考は言語に規定されることがあるので、
思考が深化しない・・・」
などのことを並べたてた。
「そうだね。
でも、文字が無いということは文字で教育しないんだ。
すると、もっとすごいことが身近で起きるけど、
それは想像できる?」
と聞かれたがわからない。
それは何かと問うと、
「教育を受けなかったら、文字が読めない。
ということは、数字も読めないんだ。
数字が読めない、わからない、ということはすごいことだ。
僕もここに来てわかったよ。
ここは熱心なカソリック教徒が多く、
日曜日ごとにみんな必ず教会に行く。
だから7日はわかるんだ。
水曜日と土曜日に市が立つから、
その間の日数は経験的にわかる。
でもそれを超えると、だんだんわからなくなる。
一年365日なんて数字はわからない。
なぜならここは日本のように季節がない。
農業のために暦もさほど必要ではない。
スコールのある雨季が3ヶ月くらいあるが
そんなにたいしたものでもない。
一年中25度前後。
殆ど同じ気候だから、一年なんて特別な意味はない。
従って親も自分の年齢がわからない。
子どもの年齢もさだかでない。
それで、外国から来た保健師が子どもの年齢を知るには、
その子が生まれた年はジャガイモが豊作だったか、
インゲンが不作だったか、
などの質問を重ねて推定することもあるそうだ。
だいたい、どこの家に行ってもカレンダーなんて無いよ。
たまにあると、2001年のだったりする。
単なる飾りなんだ。」という。
 後日Nさんという保健師に会った。
彼女いわく
「ここではたくさんの子どもが生まれる。
低体重の子が多い。
それで体重を増やすために特別な離乳食を母親に与えて
何日後かに体重を量りに来させる。
○○グラム増えたよ、と伝えても何にも感じないみたいだ」
という。
思うに、数字で言われてもピンと来ないのだろう。
生まれました、何グラムでした、
というのは日本ではまず聞くことだし、
 2500グラムを切るかどうかは注目だ。
そしてお乳を飲ませて一週間目、2週間目、3週間目・・・
でどれだけ体重が増えたというので
新米ママは一喜一憂する。
ここルワンダでは体重変化を数値で告げても
ピンと来ないようだ、という。
あまりに体重が少ないときは、
きちんとケアがあるかどうかは命の分かれ目になるのだが、
数値の基準を知らないので危険を
あまり理解できないということのようだ。
実際、保健師一人が会うケースのうち、
 1週間に2~3人の赤ちゃんが死亡し、
一年に2人くらい産褥で妊婦が死亡するという。
それを防ぐために青年海外協力隊の保健師として
 Nさんが来ているというわけだ。
新しく保健所の仕事として取り組むために、
政府は妊産婦の入院施設を外国からの援助で作ったという。
それを見せてもらった。
びっくりしたのは、
妊婦さんの分娩室と入院施設があるが、
食事は家族が1週間泊まりこんで作るのだそうだ。
そのために家族用の台所が別棟で建っていた。
家族のふれあいにとってはとてもよさそうだと思った。
しかし、妊産婦のためのトイレは斜面の下の別棟にあって、
草原に人の足跡が作ったような細い道があって、
そこを歩いて行く。
寝室のある棟からは15メートルくらい離れており、
街灯は無いので夜は懐中電灯で行くことになるが、
日本人である私は危なくないのかと考えてしまった。
妊婦が転んだらどうなると考えないのだろうか? 
トイレ棟と寝室棟の距離を見ながら、
日本では本当に人々は守られているのだということを
痛感した。
 一方で私の頭から、IT立国という言葉が去らない。
こんな状態でIT立国ってどういうことになるのだろうか?
目の前の施設を見ながら、考えてしまう。

7.トゥンバの専門学校


 R氏が
「トゥンバの専門学校でW氏が論理回路の講義をしているのを
聴きに行くけど、一緒に行く?」
というので、これも即決で行くと答えた。
気軽について行ったがこれがすごかった。
なにしろ私は地理がわかっていない。従
って距離もわからず、どうやって行くかも知らなかった。
知ろうとしても、地図なんてないよといわれていた。
あるかもしれないが売っていないのだ、という。 
R氏はこの国に来て、街であれなんであれ
地図って見たことない、という。
 まずR氏のいる土地から首都のキガリにバスで
2時間くらいで着く。
すべてのバスはキガリ発なのだから、
他の地方に行くならまずキガリに行かないといけない。
だからキガリに行くバスを待っていたら、
バス停で若いおめかしをした女性に会った。 
R氏がいうには
「あれは、ルワンダ美人の条件を満たしている人だよ」
という。確かにかわいいが、条件て何?と思ったら、
「前歯の間が少しあいているやろ。
あれ、条件。日本で言えば富士額(ふじびたい)」
と説明してくれた。
確かに注目すると、
その前歯の間の少しの隙間のせいで彼女の顔がかわいいな、
と感じる。
土地により美人の条件が異なるのがおかしかった。
 
 キガリでバスを乗り換えて
さらに一時間半くらいしてトゥンバで降りる。
でもそこはバス停以外は少し民家があるだけで、
他には丘が見えるだけ。バスは行ってしまった。
どうするんだろうと思ったら、
ここからバイクタクシーに乗るという。
それはバイクの後ろに客を乗せ、
行き先ごとに値段の交渉が成立したら乗れる
というしろもの。
5,6台いるバイクタクシーの何人かにR氏は交渉して、
私に
「はい。これに乗って。僕はこっちに乗るから」
という。
え!と思った途端にバイクの兄ちゃんは
私にヘルメットをかぶせた。ズシッと首に重さが来る。
しまった!と思った。
私はもちろんバイクは初めてだけど、
それよりなにより何年にもわたって
私の頚椎、胸椎、腰椎は椎間板ヘルニアを起こしていて、
ヘルメットの重さは危険なのだ。
週に一回くらい治療に通っている身で
旅行に来てしまったのだ。
そんなことを知らないR氏はこれくらい当然と思っている。
しまった、しまった、と思ったがあとのまつりだ。
ヘルメットを脱ごうとすると、とってはいけないという。
このバイクタクシーに乗らないと専門学校には行けない
という。
 R氏はW氏に訪問の約束をしているので、 
W氏は待っているはず。本当に困った。
エエイ!なるようになるさ、と瞬時に覚悟した。
「はい。出発してください」と叫んだら、
ブルンブルンと出発した。
20歳の頃、何回も骨の病気で倒れ入退院を繰り返し、
今は治療で保っているとはいえ、
このヘルメットは危ない。
経験上、学校に着くまではもつだろう、
そのあと私は寝込むだろう、そうしたら、
日本に帰るどころか動くのもしばらく無理だ、
と次々想像できるが、
今は学校に向かわないとR氏に迷惑だ。
ホテルであとで寝込むのは私ひとりでナントカしよう、
何ヶ月かしたら日にち薬で日本に帰れるだろう、
と考えた。 
 
しかしバイクはそんなことを考える私にはお構い無しに、
でこぼこの山道を登って行く。
そのデコボコぶりは半端ではない。
雨水で20センチは掘れ込んだ溝が3筋、4筋とある
巾1メートルくらいの山道を、
平らなところを拾いながら進むのだ。
その溝に車輪がはまれば転倒は間違いない。
しかも段々畑の景色の高度を稼いでいく。
首の痛みの覚悟はしたが、本当にあちこちが痛む。
助けて~と内心思いながら
必死で運転手に後ろから抱えつく。
スピードはそうでもないが、バウンドがひどいので、
そうしていないと振り落とされそうだからだ。
落ちたら確実に斜面を転げ落ちるぞと考える。
いきおい体が緊張する。
すると多分重心が変になるのだろう、
バイクが安定性を欠くのがわかる。
これはいけない、倒れるぞ、けがするぞ、
とますます思う。
だから緊張してはいけない、
と必死で身体の力を抜こうと思い、
どうやったら抜けるのか、
とますますしがみつきつつ考える。
やっと足の置き方で身体の緊張を抜く事が出来る
とわかってきた。
首は痛いけど、少し余裕が出来たので、
周りの景色を見渡すと絶景だった。
しかし、
倒れたらあの谷間に転げ落ちるという確信も湧く。
怖いので目を上に上げて絶景のみを見ることにした。
丘を一つ越えた。
もう着くのかなと思ったらまた別の丘にとりつき、
それを越えた。人家なんて無い。
ひたすらみどりの丘が気持ちよく広がっている。
こんなに丘をいくつも登って行って、
本当に学校があるの?と思ったら、
やっと学校の門に着いた。やれやれ。
どれくらい乗ったのか覚えていない。
首は限界に達していた。
かなり揉み解す必要はあるが、
なんとかなるかも、と期待がもてた。
でも、そこは素晴らしい建物だった。 
W氏とほかの2人が出迎えてくれた。
聞くとJICAが何億とお金をかけて作り
援助したのだという。
これは援助の中でもビッグプロジェクトなのだろうと、
見た途端に感じた。
多分ルワンダにとっても破格の寄付なのではないだろうか。
W氏は、まずは寮のお昼ご飯をビュフェ形式で
食べれるからと案内してくれた。
近隣には少数の農家以外はほとんど家はなく、
学生も教職員も全員が寄宿舎にいるようだった。
食事の味はいいけど、
 365日3食とも全く同じ食事だという。
あとで聞いた話だけれども、
ある人が食事の変化の無さにうんざりしていたら、
仕事が終わって、肉の串焼きを食べに行こうと誘われた。
嬉しくなってついて行ったら、
なんと1時間強山を歩いて下って、
食べてまた山を登って帰った、という話を聞いた。
夜はバイクタクシーは無いのだ。
でも歩いてでもときどき食べに行きたくなるそうだ。
ルワンダの全く変化の無い食事形態が
わかってきていた私は、なるほど、ととっても納得した。
W氏は日本の大手のコンピュータ会社の社員だが、
 JICAのプロジェクトでやってきたそうだ。
英語で19歳の専門学校生に講義をしているのを
 R氏と共に私も聞いた。
トランジスターの講義だった。
エミッター、コレクターなどの機能と回路の講義をして、
実際に基盤にトランジスターをつないで
電源をいれてその効果を確かめる授業だった。
質問も丁寧に受けて説明も丁寧だ。
とてもニコニコとW氏は話すし、
わかりやすい講義をするので、
これは人気の講義だろうなあと思った。
半期継続の講義の一部を聞いたのだが、
学生達は数人のグループで一個の基盤をもっており、
実地でわかるように工夫されて居る。
だんだんレベルをあげる継続した話を
聞いてきているので、かなり理解しているようだった。
学生達の英語も確かなようで、
これってR氏の大学の学生よりも英語は確かな
のではないかと思えた。若いということだろうか。
ここの学生を見る限り、IT立国は夢でもないかなあ?
という気もした。
これだけ恵まれた設備の中で勉強できる彼らは
きっとこの国のエリートを形成していくのだろうと思う。
またまたバイクタクシーに乗って
山を降りることになった。
今度は登って来たときより
首はもっと危険だと思ったので、
ヘルメットは絶対にかぶらない、と断固断ったら、
今回はなんと、断れた! 
思うに私たち2人以外に人がいなかったから
ではないかと思う。 
R氏が“ボホロ、ボホロ”
という言葉を覚えなさいという。
意味は“ゆっくり、ゆっくり”だそうだ。
登ってくるときより下りは、
デコボコ道がもっと怖かった。
転倒すればあの下に落ちるぞ、と
いう予測が如実に立つぶん、よけいに怖いのだ。
何回も
「ボホロ、ボホロ」
と言う羽目になった。運転手も
「ボホロ、ボホロ?」
と聞いてくる。そのたび私は
「ソウ、ボホロ、ボホロ」
と答える、という具合だった。
来たときのトゥンバのバス停に着いたときは
心底ほっとしたし、
とってもたいした冒険をしたような気がしていた。
本当はちょっとしたことだったのかもしれないが・・・。
でもあとで人にトゥンバの奥の専門学校に行った
というとあきれられたので、
ルワンダでも険しいところに行ったのかもしれない。

8.食事会の雑談


 トゥンバから一度首都キガリに戻って一泊した。
バス停から近いホテルで前よりすこしランクが落ちる。
しかし、水が多少不便という程度で、
風呂には入れたので私には充分だった。
その夜、R氏が、自動車整備士や地域発展を援助する人、
領事館に居る知人と集まって中国料理店で食事会をする
というので、やっぱりついていった。
立派な店だ。
しかし、かなりいいお店のはずだが、
またもやトイレの問題にぶつかる。
水洗の形はしているが水は出ず、そばにあるバケツから、
ボールで汲んで流さざるを得ない。
どちらかいうと、この国ではこれが標準かもしれない。
こんなに高いレベルの料理店でもこれだもんね、
と思った。 
R氏が
「形を真似てるだけやねん。
ここにもちゃんと水洗トイレありますよって。
それで満足やねん。でも内容がまるで違う。
よう~気をつけて見たらいい。
他にもそういうもん、いっぱい見つかるよ」
といっていたなあと思い出した。
食事自体はおいしいというべきか否か、
むつかしいところだ。
日本で食べる中華とは全く異なる味だが、
中国で食べた中華とも異なる。
やはりその国のアレンジを、
どうしても受けるのだなあと思った。
それはさておき、話には花が咲いた。
話題は雑多で多岐にわたる。
ルワンダを発展させるには何があればいいのだろう、
何をすればいいのだろう? 
もしこの国に住むとすれば、
なんの商売がはやるだろうか? 
商売しても2年くらいは居てもいいが3年住めるかなあ?
なにしろ刺激が無い。
観光立国にならないか? ゴリラとジェノサイドだな。
しかしゴリラは見に行くのに足がないよ。
自動車に3時間乗って下手すると雨の中を
 3時間歩いてやっとゴリラを見る、
それってどれくらい人が来るか? 
世界でもっとも有名なルワンダの特徴って
ジェノサイドだよね、これって観光にはならないよなあ。
人殺しのあとだもんなあ。
しかしユダヤのホロコーストは
アメリカで観光地になっているよ、
やっぱりジェノサイドは売れないかなあ?などなど。
みんなすっかりルワンダびいきになっている。
それはそうだろうなあ、
でなければ日々の援助の仕事は出来ないよなあと思った。
面白かったのは、だれかの疑問が表明されたときだった。
「もしルワンダの人を日本にいきなり連れて行ったら
何にくだろうか?」
というもの。
いろんな案がでたが、結局きっと地下鉄だ、
ということになった。
この千の丘の国では交通手段は自転車、
バイク、自動車しかない。
丘か沼地があるばかりで平野は無い。
地上に鉄道は無い。
ましてや地下を電車が走るなんて
見るまでわからないのではないだろうか、
というので一致した。
しかし私は日本に来てルワンダ人が驚くのは、
食事の豊富さではないかとも思う。
味のバリエーション、材料の多様さなど。
しかし一方で、慣れてないことのために、
まったく美味しく感じないかもしれない、とも思う。
この国は、昼も夜もしかも365日、
つまり1000食がまったく同じメニューなのだ。
日本人には耐えられそうにない。
それは人々に違うものを食べたいという要求が
無いからだろう。
または知らないのかもしれない。

9.ニャンザの王宮


翌日、キガリからバスに2時間半乗ってニャンザに行き、
そこからチャリタクに乗った。
つまり自転車の荷台に客を乗せて
お金を取る商売がここにはあった。
バス停から自転車で走るには適当な距離だ。
貸し自転車は無い。
荷台が広いため、降りたときは
股関節が変になっていたが、
歩いているうちに調整がされてきた。
 R氏はどうもないらしい。
やれやれ、年をとるとはこういうことだと思った。
ここは古来から王宮のあった土地で、
今は昔の草の王宮のレプリカと、
そのそばにコンクリートとレンガで出来た
最後の王宮が建っている。
見晴らしのいい丘の上にあり、
みどりの豊穣の隣接する丘々が360度望めるところだ。
とても気持ちのいいところに建っている。
萱で出来た王宮は1950年ころまで使われたそうだ。
中までガイド付きで案内してくれたが、
敷地の入り口には守りの木が両脇に生えていて、
これが王宮の特別の印だと説明された。
敷地の中に直系15メートルの円錐形の
かやぶきの大き目の小屋があり、
まわりに小ぶりの円錐形のかやぶきの小屋が二つあった。
大きめの小屋の内部には、王の寝室、王妃の部屋、
おつきのものの居場所、ダンスを鑑賞する場所など、
すべてが一緒にある。
小屋の入り口で説明者は“キングズ・スローン”
と言って指差したので“王座”という訳が浮かんだ。
ホーと思って見ると、
私にとってはただの丸太を50センチ高さに切り、
上をすこしくりぬいて座り心地をよくしたくらいの
質素なものだった。
王宮の周りにはビールの蔵、
ミルクの蔵など直径5メートルくらいの
かやぶきの円錐形の蔵が15ばかりあったらしい。
今はそのうちの二つを再現したという。
非常に質素な王様だったのだと思う。
それらの建物の裏には“王の牛”
というのが飼われていた。
とても大きな美しい角をもち、
身体も黒く毛の色艶もよく、立派な、
見るからに素敵だと思わせられるいきものだった。
事実、古代より、
牛は特別な資産としてルワンダでは通用したものであり、
牛を持っている事が権力の証であったという。
牧畜業をしているものをツチと呼んだというのも、
こういうことなんだな、と思った。
しかし王宮は、あまりにも、
豪奢さで人を圧倒するような感じのなさすぎる草の建物
であり、逆に私はこれはすごいものだと思った。
なぜなら、ルワンダという国は、ケニア、コンゴ、
ウガンダなど、
いくつもの国と国境を接しているにもかかわらず、
ひとつの言語、ひとつの宗教、
ひとつの国という形を珍しくも500年近くも
アフリカで保ち続けたというのである。
たとえそれが伝承と違って300年であっても、
それをこのような質素な200坪くらいの王宮で
保ち続けるには、
よほど王様は精神的な中心であったのだろうと思われた。
並々ならぬ忠誠心をはぐくんでいなければ、
こんな建物で、“王様です”なんてことが
通用するはずが無いと感じてしまったからだ。
ヨーロッパなどは、荘厳さや豪華さで権力を誇示するが、
それとはかなり違う文化だという感じがするのだ。
  
見た感じだけでなく、
ルワンダをもっと歴史的にも知りたいと思って、
旅行中や旅行後に色々本を読んだ。
それらによると、
ヨーロッパ人が植民地としてルワンダを従えようとしたとき、
矢の嵐によって追い返されたため、
寧猛の民の住む州として手をつけず、
ドイツがかってに地図上に線を引いて、
自分の領土として主張していたのだという。
第一次大戦後、ヨーロッパの戦勝国の話し合いによって、
かってにベルギーの植民地とされてしまったが、
国民の王様への忠誠心は深かったという。
しかし、上と認めたものに対するこの忠誠心が、
逆にジェノサイドのときは利用されたのだろうと
いう気がした。

後日ブタレの国立博物館に行った。
ブタレは日本で言えば京都にあたる。
学術都市であり、国立大学がある。
博物館に残っている写真を見ると、
 1930年~1950年頃でも、人々は半身裸で腰みのをつけ、
手にやりや弓を持っている。
ミトコンドリア・マザーはルワンダと
ウガンダの国境当たりだといわれているので、
古くから人が住んでいたことは確かだ。
しかし、ルワンダが文字を発明しなかった、
持たなかった、というのは致命的だと思う。
それは、極端なことを言えば、日本で考えると、
弥生時代がそのまま現代まで続いたことを意味する。
歴史が発展しないでそこで留まっている。
何年に何があったかなんてことは伝承の域をでない。
日常の道具も、簡単な鍬、鎌、かご、
ツルハシなどはあるが、機械めいたものは一切無い。
それがつい最近といっていい60年位前の状況なのだ。
ベルギーの植民地となり、
無理矢理押し付けられたフランス語を公用語としたが、
教育が行き届かないためにフランス語を話せない人
も多く、
従って今でもキニアルワンダ語を国民全部が話す国だ。
現在識字率は70%だという。
首都キガリにはフランス語か英語の文字を読める人が
集中しているが、
田舎ではキニアルワンダ語以外はダメな地域もあると
聞いた。
私が、R氏の住居や人々の暮らしぶりを見て、
停電の多さや水道が普及していないのを経験して、
ルワンダは昭和20年代くらいの水準かなあと言うたびに、
日本との違いが話題になった。
そして私たちは、
本当にルワンダはそこのレベルからIT立国のレベルにまで
引き上げられるか、
という点について話を繰り返した。
日本と同じに考えていいか? 
いや、ひょっとしたら、
実は江戸時代から明治になった日本は、
その時点でも今のルワンダより、
もっと人々の文化水準は高かったのではないか。
 1800年当時の江戸は世界に冠たる100万都市だが、
たとえば識字率ひとつとっても70%だったという。
寺子屋制度が水準を支えていたのだ。
実は、その同時代のロンドンでも20%であり、
パリは10%だったという。
ヨーロッパはその都市内の人々の格差が大きかったのだ。
最先端部分で考えると、
サイエンスこそ負けてはいたが、
日本の算術は微分・積分に似たところまで発達しており、
だからこそ開国と同時に日本に取り入れた学問も芸術も
実学も、猿真似といわれようとも
日本人はこなす事が出来、
取り入れる事が出来たのではないかと思うからだ。
 R氏も私も、二人ともルワンダのIT立国は
見通しは暗いなあ、と感じるゆえんだ。
さて、王宮である。
古い王宮の近くに新しい王宮があり、
それも案内して見せてくれた。
二階建てのちょっとしたビルで、300坪くらいだろうか。
金持ちの居間という感じの部屋部屋だ。
これは1953年に王様が飛行機に乗って
ベルギーに初めて行き、
その影響で帰国後に作らせたものだという。
それまで外国に行ったことの無い王様は
きっとびっくり仰天したに違いない。
腰みのをとり、スーツを着て出かけたのだ。
そこで見たものに圧倒された可能性がある。
だから帰国後、見よう見真似でベルギーの大工を
呼び寄せて造らせたのではないかと想像するのだが、
その推理に確証を持ってしまうのは、
王様の部屋に暖炉があることだ。
ここは赤道直下の国だ。
いくら海抜1600メートルといっても
 25度の常夏の国だ。暖炉をつくることは無いだろう
と思った。 
R氏いわく
「真似やねん。なんであってもええねん、あれば」
そうか~、食道や店にいってカ
レンダーをときどき見かけるが、
今年のカレンダーをひとつ見た以外は
全部2年前とか5年前の代物だった。
そのひとつさえ、2月のだった。
今は4月だというのに・・・。
 R氏によると、
「民家にいったらわかるよ。
家に冷蔵庫があっても、コンセントは電源に刺さって無い
テレビがあってもアンテナはない、
というのは結構普通やで」

10.美術館


ルワンダのいろんな店に入ると不思議なことに気がつく。
壁の輪郭はまあまあまっすぐなのだが、
きれいにまっすぐとは言えない。
家の壁は大きいし、
牛の糞と土を混ぜて固めて作る手づくりのものだから、
まっすぐ長方形でなくても、
まあ、仕方ないだろうと考えていた。
ところがドアの近くの上のほうに、
外から電線を引き込む8センチ四方くらいの穴が
四角く開いている。
その穴がどう見ても傾いていて、
縦の線がドアの線と平行ではないのだ。
店に入るたびに注意して見ていたが、
ついにまっすぐ平行という穴にはお目にかからなかった。
コンセントは小さいのでそう難しいとは思えないが、
同じである。壁と平行なようにコンセントの端の線が
なっていなくて、傾いている。
気がつかないというか、そういう価値観が無いのだ。
しかしそれは価値観というほどのものだろうか?
ついに私が大笑いしたのは、
ある地方都市の結構立派なホテルのレストランに
行ったときのことだ。
ドアを開けると、
 1メートルくらいの高さの細長い四角いボックスの
トップに観葉植物の鉢が3個くらい入っている台が、
通路をあけて二列に並べられて、
部屋にみどりの雰囲気をかもし出している。
よいものとわかるそういうインテリアが8個くらいあった。
その台飾りの意図はわかる。
しかし問題は、この細長い箱が、
入り口からずらっと線をなすことなく、
全くがたがたとゆがんで置かれているのだ。
唖然として笑い出してしまった。

 R氏も
「すごいだろ~、これ。
ここではまっすぐというのが結構難しいらしいんだ。
ルワンダに来てはじめて僕は、
まっすぐな線を引くというのが、
教育の結果養成される力だ、ということを理解したんだ」
という。
そんなことってあるだろうか? 
まっすぐって、教育の結果? 
自然にまっすぐひきたくなるのとちがうのだろうか、
と思ってしまう。
「定規を使ってもまっすぐにならないの?」
と尋ねると、
それでもゆがんでしまう事が多いのだそうだ。
あきれるほど不器用で、
コンピューターのダブルクリックが20歳以降の大人では
難しいときがあるという。
はぁ~と思ったが、
これだけたくさんゆがんだコンセントの位置を見てくると、
頷かざるを得ない。
しかし、テーブルはまっすぐきれいな四角だ。
ということは指物師はそればかり訓練されるので
大丈夫ということか。
線が意図どおりうまく引けないというこの話は、
ルワンダの美術が貧困だという話に繋がった。
線の引き方がとっても下手で、
そのうえ着想に独創性が無いのだという。
原因はあるんだよ、とR氏がいう。
「それも無理が無いんだよな。
小学校の授業を見に行ったんだ。
するとなんでも先生の言うとおり、
黒板に書いたとおり真似して写すんだ。
各教科、全部、そう。美術の時間も同じ。
先生が魚の絵を描くと、その通りに描く。
頭が左に向けて描くと生徒も頭を左に向けて描く。
右に向けて描くと修正されるんだ。
だからクラス中まったく同じ絵を描く。
この国でクリエイティブであることなんて、
価値が無いんだよ」
あきれて言葉も無かった。
それなのに、王様はベルギーに行ってから
王宮の近くに美術館を作ったという。
文明国にはあるべきものだと考えたのだろうか? 
しばらくほとんど使われていなかったようだが、
大虐殺の後、国立の美術館として、
新政府がなんとか使用しているという。
その美術館を見に行くことになった。
一体どういうものが陳列されているのだろうか、
と興味を掻き立てられた。
 美術館は見晴らしのいい丘の上にあった。
入り口に着くとR氏と私だけが客であった。
係りの美しく品のいい女性が出てきて案内するという。
あとでわかったが、
ルワンダではめずらしくイスラム教徒だという。
ブタレ大学の美術の学生でアルバイトとして
案内をしているそうだ。
英語とフランス語とどちらがいいかというので、
英語にしてもらった。
説明では、2006年~2008年はテーマを決めて
作品を募集したが、外国からも応募があったという。
 まず入り口を入ったところに、
本物のバイクに何か白っぽいセメントを吹き付けた
作品があった。
前の席には子どもがいるらしく、
小さなヘルメットと小さな手袋がハンドルを握っており、
小さな靴がペダルに載っていた。
後ろの席に大人用のヘルメットが高い位置に
何かで固定されており、
大人用の靴がペダルの後部にあった。
人の身体は無いがヘルメットと靴の位置から想像できた。
全体の形は均整が取れており、
なぜだか人をひきつける。
ガイドの女性は、
「作者の意図は、
“子どもの知恵に大人が従うほうがいいときがある”
というものだ」という。
その説明を聞いて、ナルホドと思った。
大人は自分が子どもより良く知っているというだけ
で必ず子どもを導かなければならないとして
関わるときがある。
しかし、子どもの声に耳を傾けるほうが
ずっといいときが多い。
大虐殺の反省をこめている作品なのだろう。
しかしこれは一般的な真実をついていると私は感じた
。私は仕事柄、親子関係の揉め事の相談で
このことを痛感することがあるので、
この説明で、作者は知恵者に違いないと思ってしまった。
その造形だけで充分印象深い作品だが、
この意味づけでさらに印象に残った。
すべて見終わってから、
ガイドにどれがよかったかと尋ねられたときの答えを聞いて、
 R氏にも印象深い作品であった事があとでわかった。
理由は尋ねなかったので不明だが、
私とR氏は感覚が似ているのだろうか? 
いや、そうではなくて多くの人に感銘を与えるのだろう、
正面に飾ってあるのがその証拠だ。
もう一つ印象に残った作品は、
焼け板で周囲を囲んだ2メートル×3メートルくらいの
作品だ。
枠の中に、
赤茶けた亀裂が少しあるトタン板が扉の形をして
収まっていて、
中央に鍵がかかっているようで
きちんとかかっていない状態で放置されている、
という感じのものだった。
なぜか古ぼけた不気味な感じのするもので、
何が私をひきつけるのかわからなかった。
しかし、作者の意図を説明されて納得した。
それは「気をつけろ。
完全に悪は去っては居ない。
悪を閉じ込める鍵は完全にはかかっていないぞ」
というのだそうだ。
今のルワンダの状況を表しているのだろう。
印象に残ったのはいずれも絵ではなかった。
しかし油絵もたくさんあったのだ。
それらのよしあしは私にはわからないが、
ひきつけられたものはなかったが、
国の美術の水準がいまひとつ、
というのはなんとなくわかった。
この分野もこれからの発展に期待すべきなのだろう。

そのあとブタレ大学に行ってみたが、
谷をはさんで広大な場所を占めていた。
やまびこが具合よく響きそうな美しい場所だった。
英語が国の公用語になったというが、
大学名はフランス語で示されていた。
そこに居た体格の立派な学生達も人懐こかった。



11.ギコンゴロの虐殺記念館2017/10/10更新




 旅行前には迷いが少しあったが、ルワンダに来てみて、
虐殺記念館は見ようと決心した。
国にひとつだけあるのだと思っていたら、
国のあちこちにあるらしい。 
R氏が

「ギコンゴロの記念館は、
僕はもう一度行きたいと思っていたので行くが、
本当に一緒に行く? えぐいで。大丈夫かな?」
と念を押す。
「大丈夫だと思う。行く」
と答える。
こんな地球の反対側まで来たのだから、
この国にとっての大事件の跡を見ないで帰るわけには
いかないでしょう、
理解しないで帰るわけにはいかないでしょう、
と思ったのだ。
 ギコンゴロは国の中部にある。
目的地にいくためにブタレから
バイクタクシーを調達したが、
私がヘルメットを拒否した途端に
警備員のような人が飛んできて
「ダメダ。かぶれ!」という。
今度は断れそうにない。
仕方が無いので、 
R氏に乗用車のスペシャルタクシーをゲットしてもらった。
 R氏はバイクが好きなので残念だっただろう。
ごめんね、R氏。
そして40分くらいそのタクシーに乗って
大きな見晴らしのいい丘に着いた。
そこは2階建ての立派な建物が建ち、
でもがらんとしていた。
その時は政府関係の人達だけがたむろしている感じで、
他は記念館を見にやって来た私たちだけだった。 
20代後半くらいだろうか、頑健な感じながら、
きりっとした目元の涼しい青年が現れ、案内するという。
タクシーの運転手も付いてきた。
ここでも英語かフランス語か選べといわれ、
英語を依頼する。

ビルの裏側に木造一階建ての校舎のような
長い建物が幾棟も並んでいた。
ひとつの入り口に近づいたところで、
ガイドの青年が
「ここで待て。見せる部屋のドアをすべて開けて、
準備が出来たら合図するから、
そのままここで居るように」という。
彼は鍵を使って、ずらーっと一列に並んだ部屋のドアを、
まるで舞を舞っているかのような優雅な物腰で
開けて行く。
立ち居振る舞いが上品な青年だ。
待っている間、私は周囲の丘を見晴るかす。
緑に囲まれ、風が心地よく吹く非常に気持ちのいい眺望。
しかし、それは異様な臭いにさえぎられた。
それは明らかに人間の死臭だった。
 15年もたっているはずなので、
最初私の想像は間違っているのではないかと思ったが、
しかしこの臭い、これは間違いようがない。
ああ、そのとき初めて私はここには死体が置いてあるのだ
と確信した。
“えぐいで”という言葉からなんとなくそうかな、
と思っていたが・・・。
やがて青年ガイドの手招きで次々と部屋に入り、
いくつもいくつもめぐることになった。
各部屋とも死体が累々とある、
という状態だった。
それは衣服をとり、
裸の骨と皮ばかりになった硬直した身体に、
保存のために石灰をいっぱいかけ、
真っ白だった。
大人も居れば子どもも居るし赤ん坊もいる。
頭蓋骨やあばら骨にマチューテ(ナタ)の跡、
弾丸の跡が残っているものも多数あった。
部屋は静まり返っていた。
シーンという音が聞こえそうなほどシンとしていた。
ここは死者の居場所なのだ。
なんの飾りもない。
死者を集めたとき、
一体誰かは調べようが無かったのだという。
どの棟もこの状態だという。
目を背けたくなるが、
いや、これは現実に起きたことだし、
見ておこうと私は頑張っていた。
 2年前にR氏が訪れたときは、
すべての棟を巡ったのだという。
今回は、私たちが訪れた時間のせいもあったのだろう、
見せてくれたのは一つの棟だけだった。
でもそれでも私には充分すぎるくらいだった。
ここで一体何人が殺されたのだろうか、
と思っていたら、 
55,000人を少し超えるという説明があった。
その丘の上には教会と
何棟もの学校用の建物があったのだ。
なぜ人数がわかっているかというと、
県知事や牧師が
「ツチの人はここに来れば安全だから来るように」
というお触れを出して、
来ていない人が無いか細かく各地域の長に
人数確認をさせて報告させ、
来ていない場合は人をやって呼びに行かせたという。
狭い各村落で、お互い顔見知りであり、
ツチかフツを示すIDカード所持を
義務付けられていたとなると、
逃れようは無かっただろう。
そうして全部のツチが集まり
人数確認ができたところで、
不意に扉を全部閉めて殺したのだという。
県知事も牧師もフツ至上主義者であるか、
またはその命令に忠実な者だったのだ。
手榴弾、機銃掃射、ナタ、棍棒が使われたそうだ。
このときの近代武器はフランス軍が提供したという。
フランス軍は殺戮には参加せず、見ていたそうだ。
密室の中の壮大な殺戮。
5万5千人! 
そして実は皆殺しと思われたが、
死体の下で死体の振りをすることで助かり、
後日逃げおおせた人が子どもも含めて 
11人居たのだという。
かなりあとになって、そのサバイバーたちの証言で、
その日の前後に起きた事がわかってきたのだそうだ。
まさか牧師に、県知事に、
だまされるなんて思ってもみなかっただろう。
教会に行けば助かると思って、
まったく武器をもたなかった無抵抗のツチの人たち。
ほとんど何もかもが私の想像を絶した。
建物の中の説明が終わり、ついで外に出て、
丘の一方にある草原に行った。
おかげで臭いからは解放された。
そこは太陽の降り注ぐみどりの草原
。夏のような日差しに風がそよ吹く。
隣の丘がそのまた次の丘が見渡せる。
なんでそんな眺望のいい所に案内されたのかと思ったら、
虐殺後、フツ至上主義者はフランス軍に見物されつつ、
そこの草原にものすごく深い穴を
いくつもいくつも掘って、
すべての死体を放り込んでいったそうだ。
そのあと草をかぶせわからないようにしたという。
そしてその草の上で
フランス軍の2500人にも及ぶ兵士は
バレーボールなどに興じて遊んだのだという。
この話を通訳してくれていたR氏は通訳しつつ私に言う。
「今このガイドの青年はとても感情的になっていると思う。
なぜなら、きれいな英語を話す人なのだけど、
フランス語のほうが得意なのだろう、
感情が激したらフランス語が混じるんだ。
きっと自分で気がついていないのだと思うけどね」
さもありなんと感じた。
感情が激して当たり前。
許せないだろう、と。
 次に別の大きな平屋の建物に案内されて行くと、
汚れた衣服が一杯並べてあった。
穴から掘り出した死体から衣服を脱がし、
汚れを水で洗い流して石灰で処理をしつつ、
ここに衣服を置いたのだという。
処理の済んだ死体はさっきの棟に運んだのだそうだ。
それは何日も何日もたくさんの人で行い続けた
作業だという。
私にはすべての説明が圧倒的で、その圧倒さゆえに、
人間というものが、善も悪もひっくるめて、
なんでもする動物なのだと思えてきた。

しかし、このギコンゴロの記念館のあと、
ルワンダ滞在中に、
私はキガリとニャマタの記念館にも行き、
合わせて4つの記念館を訪ねたが、
そのときの経験と合わせると、
このギコンゴロの青年ガイドは
虐殺のサバイバーである可能性が高い。
どういうわけか、
どの記念館のガイドも30歳前くらいの人ばかりであった。
変だな、と思ったら、ある人が
「ここのガイドの彼女。サバイバーなのよ。
他の記念館でも結構そうだと聞いたよ」
と教えてくれたのだ。
虐殺の頃15歳までの子どもは、現在15歳から30歳なのだ。
しかし、サバイバーが虐殺記念館のガイドを
本当にしているのだろうか?
それもまた疑問だが、もし本当だとすると、
そういう仕事しか手につかないのかもしれない。
見た目にはとても静かな人たちだった。
そして身振りが控えめで、静かに話した。
私に村や町の丘の路上で話しかけてきた陽気な人たちとは、
あきらかに異なる雰囲気を身につけていると感じた。
そういう場所だからそうなのかもしれないとも思えるが、
しかし、他の見学に来た人とも異なる雰囲気だった。
静かさがその人の身体から染み出ている感じなのだ。
いや、それは静かさというより哀しさなのかもしれない。
私が訪れた首都近郊のニャマタの教会では、
建物がそのまま残り、
壁には小さな子ども達が何人も同じところに
投げつけられて殺されたという染みが、
かなり大きく残っていた。
当時の牧師がツチをかばったので、
ツチとともに虐殺されたそうだ。
ほとんど最初に起きた5000人を超える大量虐殺だった
という。
教会の裏に建物があり、
そこには、しゃれこうべの山の区画、脚ばかりの区画、
腕ばかりの区画というように
骨の種類で分類して展示していた。
やはりそれも圧倒的に迫ってくる。
量が半端でないのだ。
(帰国してから「ルワンダの涙」という映画を見た。
国連軍が駐留している教会の牧師が、
ニャマタの牧師が殺されたということを聞いて、
心が揺れる様を描いているシーンがあった。)

ニャマタだけでなく、
ルワンダ中どこの虐殺現場でも共通して、
女性のレイプが通常のこととして行われたという。
妻が夫の前でレイプされて殺される、
母が、姉が、幼い子どもの前でレイプされて殺され、
そして子どもも殺される。
また、HIV感染者をわざわざ選んで
グループでレイプさせた作戦も多かったという。
生まれるツチの子どもが感染することを計画して、
その場合はすぐに殺さなかったケースもあるそうだ。
なんということだろうか。
従って生き残った女性にHIVが多いのだそうだ。
親のレイプと殺人を見せられて
サバイバーとなった子どももいるという。
私はほとんど絶句。
そのショックをどのように緩和するのか? 
できるのか?
そういえば保健所で、
保健師のNさんに部屋を見せてもらったとき、
彼女がそこのドアを指しながら、
HIVの教育はここでは大切なの。
毎週あそこの部屋で教育をするのだけどね。
もともとHIVはアフリカには多いといわれていたけど、
ここでは虐殺の後遺症でもあるのよね」
と言っていたのを思い出した。

続きは11月の同時期です。お楽しみに。




12.なぜ虐殺は起こったのか?(2017年11月8日更新)


 本当にたった3ヶ月で約100万人がこの世から
消えさせられたという、人類史上このようなジェノサイド
(ある集団全体の抹殺を意図した虐殺)は
ほかにはありえない。
近隣、血縁の顔見知りを、日常の中の「仕事」と称して、
普通の国民が他の国民を虐殺したという、
そのやり方だけでなくそのスピードは、
ナチのホロコーストも及ばない。

ナチのホロコーストは隠れてガス室で行われたので、
一度に大量に、繰り返し行われ、
一般の目に触れることはなかった。
しかしルワンダでは路上で何隠すことなく、
政府の主導でラジオや新聞で呼びかけられて、
一人一人を、マチューテ(ナタ)という原始的な道具で
直接血を見る形で実施されたのだ。
殺人が、普通の畠や家や木の風景の中に
普通のこととして溶け込んでいたということなのだ。
それを誰も止めない。
止められない。

「毎朝“仕事”にでかけて行くあなた方の勇姿は
素晴らしい。誇りに思う」
と女性のラジオアナウンサーなどは全土に向けて
「仕事」に行く人たちを鼓舞していたという。
心ある人々には、これぞ地獄といういくつもの風景が
折り重なるように存在する絵を見せられている
感じだっただろう。
この大虐殺を指導・命令したフツ至上主義者と
呼ばれる人たちは狡猾な人たちだったのだろう。
そんなにもおおっぴらに実施しながら、
その政府を糾弾する声は、世界からは長いこと
上らなかったのだから。

このジェノサイドは、
表面上はルワンダ人の手によって起こり、
ルワンダ人の手によって終息した大虐殺である。
現在生きているルワンダ人約900万人の何百万人かが
このジェノサイドに関係している。
その詳細を知り、事実のあとを直接見るまでは、
私には、そのようなことが起こり得るとは
想像だにできなかった。

1994年当時(これは阪神大震災の前年であり、
そう昔のことではない)、 
100万人が虐殺されたというジェノサイドが
わかったとき、世界は言葉を失い、誤解した。
そして虐殺された側を援助したのではなく、
虐殺した側(ジェノシダレと言うそうだ。
今回の場合フツ至上主義をとなえた政府と
その実行同調者を指す)を援助したのだった。
なぜそんな奇妙な事が起きたのだろうか?

RPF(ルワンダ愛国戦線)と名乗るツチとフツの
合同勢力のために虐殺が終息に向けて動く見通し
となった時、
報復を恐れたジェノシダレの政府要人達は他国に亡命し、
一般のジェノシダレは難民となって
コンゴ等近隣の国に逃げた。
そのとき盾として一般の婦人・子どもを囲むように
連れて行き、
「暴動によって難民となったのだ」という主張で
世界の同情を集めたのだそうだ。
自分達こそが被害者だというプロパガンダは成功し、
国連高等難民弁務官の緒方貞子が率いる組織も、
その主たる支援者だった。
国連にしてそのように誤解したのだ。
だから世界の人道主義団体はこぞって難民化した
ジェノシダレを支援したそうだ。
なんということ!と今の私は思うが、
其の当時、事情が錯綜して
きっとわからなかったのだろう。
世界中が騙されてしまったというのは、
フツ至上主義者がとても狡猾だったというほかは
無いのかもしれない。

そのフツ至上主義者で外国に逃げた難民達は、
マチューテ(ナタ)を持ったフツ族民兵200万人が
主力だったという。
ルワンダ国内で、政府を牛耳るフツ至上主義の
リーダーたちに命じられて虐殺を実行し、
今度は同じリーダーたちに逃亡を強いられて
知人・家族等を連れて難民になったのだ。
国際人道団体のその援助総額は数十億ドルといわれ、
虐殺者達の活動資金となった。
その経済的支援ゆえに、
ジェノシダレ達は“活動”を継続でき、
なおもルワンダ国内に再侵入したために
虐殺は起こり続け、
しかもフツ至上主義者は近隣のザイール紛争激化などにも
次々と影響を与えたという。
一方、虐殺と戦いのため乱れた国内を立て直そうとした
ルワンダ新政府には、国際援助は数億ドルだったという。
そして虐殺から4年後、やっと世界は真相を理解し始めた。

一体どうしてそのようなツチ族とフツ族の対立が
もたらされ、かつ世界は誤解したのだろうか? 
前後の事情はどうなっていたのだろうか? 
いろいろな文献を読んで私が理解した限りでは
以下のようである。
少なくとも、ツチ「族」、フツ「族」という
「部族の対立」を予測させるような構図があるという
理解の仕方が、間違いのもとだった可能性がある。

 なるべく歴史的な順序を追って、
 私の理解した経過をスケッチしてみたい。

太古の昔に、
ツチは北と東からフツは西と南から来たとして、
ツチとフツという言葉はあったようだ。
しかし、地域的境界無しに住み婚姻を繰り返し、
同じ宗教、同じ食べ物を食べ、
同じキニアルワンダ語を話し、
ベルギーの植民地となる前はツチとフツの部族としての
対立は無く、
部族としての違いはほとんどわからなかったという。

しかし、ヨーロッパ人の作った
ハム仮説(はるか昔、ツチ族はエチオピアからやってきて ルワンダの地を征服したヨーロッパ系の黒人の
民族であるという仮説。
だから優れているのだという仮説)を信じた
ベルギーは、昔から部族対立があったと解釈した。

 1860年当時版図を広げた王様がツチで背が高く、
 1920年ごろベルギーが植民地政策を始めたときの王様も
ツチで背が2メートを越していたことも関係したようだ。
ベルギーの為政者は、鼻の高さ、顔の縦の長さと
横巾の比率(顔の比率を測っている有名な写真が残って
いる)、背の高さなどの身体的特徴を物差しで測って、
ヨーロッパ的特長を備えた背と鼻の高い人々をツチ族
として、支配階級扱いとした。

ルワンダでは、太古から現在に至るまで、
常に牛が特別な価値を持つためか、
牧畜業の人々はツチ族扱いとされ、
農民の殆どがフツ族扱いとなったらしい。
しかしもともとツチとフツという言葉はあって
「カースト」とか「地位」を指すといわれるが境界が
あいまいで、牛を飼うフツもいれば農民であるツチも
いるようで、はっきりしない。

しかしベルギーはその統治を浸透させるに当たって
 1933年には部族としてのツチ族とフツ族という言葉を
固定させて用い、身分証明書(IDカード)にそれを記入、
国民全員に持たせた。
もはやツチからフツへ、
フツからツチへという以前のような変更は
きかなくなった。
そしてツチ族という言葉は政治的・経済的エリートの
代名詞となった。
しかし政治がそうであっても一般国民は
この区別はあまり問題にせず、
かわらずツチとフツは婚姻し混在した。
現代もそうであるという。
(帰国後見たホテル・ルワンダという映画でも、
最初のあたりに、
「ツチとフツが見かけでは全く区別できない」
と言って驚いているヨーロッパ人記者が出てくる
場面がある。)

しかし第二次世界大戦後、
全世界的な規模で植民地政策は支持されなくなり、
アフリカで次々と独立国が生まれた。
世界の潮流が独立を促したとき、
当時のルワンダのツチ族と呼ばれた名目上の支配階級は、
ベルギーの支配下ではない自分達独自の独立を
達成しようとしたという。
もともと植民地にされる前は、
ルワンダは自給自足の王国であって独立国であったから、
ある意味当然かもしれない。
しかし、それを嫌ったベルギーは、
今まで肩入れして生きたツチ族に代わって、
ベルギーに従順だったフツ族と呼ばれた人々に肩入れし、
 1962年、革命を支援して独立させ、
共和国を達成させた。
そして独立後はフツ族が支配階級となったので、
政府顧問として影響力を保ち続けたのである。

1962年から、
独立国としてのルワンダを治め始めたフツ族支配階級は、
自分達の立場を守るものとしてIDカードを続行した。
一度支配階級になると、支配階級は家族性を保ち、
教育の恩恵を受け、知識階級や中産階級を形成し、
そこには財の蓄積や権力・利害関係が始まる。
そして1962年の独立前後から1994年まで、
フツ至上主義者は、
旱魃や世界的な冷戦構造の影響で政治的経済的に
行き詰まると、ツチ族を利用したといわれている。
つまり、為政者やその信奉者が自分達の政治の失策を
見直すのではなく、打開策として、 
1962年のフツ族主導の革命の情熱を呼び戻して、
国を結束に導くためのいわば方策として、
昔の支配階級のツチ族を虐殺する歴史を繰り返した
という。
しかし歴史的に見れば、
これは、ベルギーによって自覚無く、
誤解あるいは想像力によって人工的に
“作られた部族対立”である。
両者は政府発行のIDカードの証明書がなければ、
見た目だけではルワンダ人にすら
どっちであるかは不明だそうだ。

それでも1994年3月までは、
虐殺と言っても1万人から3万人の小規模(!)の虐殺
だったという。
それが19944月からのは3ヶ月で100万人という
比類を見ない規模になったのだ。

1994年、当時の大統領はフツ族で、首相はツチ族だった。ツチを排除する演説をしたことのない大統領は、
 199446日、飛行機に乗っているときに、
大統領警護部隊の基地から発射された2発のミサイル攻撃
で撃墜され、大統領官邸に飛行機が墜落という、
およそありえない形で即死。
早くもその2~3時間後にはツチ族の仕業だとして
ツチ虐殺が始まり、翌朝には女性首相も殺害された。
大虐殺の劇的な始まりであり、劇的な進行速度だった。
しかも虐殺の実行はよく組織されて行われたので、
今ではフツ至上主義の謀略だという説が有力である。

最初は、フツ至上主義に反対したフツ族の人も
多数いたし、賛成したツチ族もいたそうだ。
しかしフツ至上主義に反対したフツといわれた人々は、
真っ先に虐殺されたという。
殆どのツチ族は反撃できずただ逃げ惑うのみで、
多くは助けを求めた教会の司祭や県知事(いずれも
フツ族)の手引きで抵抗しないまま殺害された。
混乱のきわみといえよう。
フランス語圏であったため、フランスも後押しをし、
虐殺時の武器の多くはフランスや中国や近隣の諸国から
提供された。

そして虐殺が終わってみると、
 130万人居たと言われているツチ族の7580%の人が
殺されたという。
ジェノサイドと言われるゆえんである。

虐殺はどのように収束したのだろうか。
その功績はRPF(ルワンダ愛国戦線)という軍隊にある。
 RPFとは、ウガンダで生活していたルワンダ人が、
ツチとフツの区別なく、
ウガンダで結成した志願兵からなる軍隊の名前である。
殺害からルワンダ北部に逃れてきた人々を助けながら
国の中央部に入り込み、
首都キガリに入って全国を制圧したのである。
どのような理念のもとにその軍隊は動いたのか、
リーダー達はどのような考え方をしていたのかは、
特筆に価するので後述したい。
とても興味深い軍隊だと思う。

ジェノシダレとRPFの戦い。
それを世界は、ベルギーと同じように、
昔からのアフリカの伝統的な部族対立の構造で
捕らえてしまったという。
支配階級のツチ族と、
被支配階級のフツ族の対立の構造が昔からあった、と。
だから、1962年に被支配階級のフツ族がツチ族を
巻き返したのだが、
 1994年にツチ族が再び政権を取ろうとしている、
だから難民になったフツ族を助けなければならない、
と理解したのだそうだ。

しかし実態は、19944月からの3ヶ月間、
ただただ政治的に利用されて抵抗することなく
殺されていくツチの人々だったのだ。
それも100万人規模で。
それを、なんとか留めて、ツチとフツの対立ではなく、
ルワンダというひとつの国だとして
まとめようとしたのが、RPFの兵士達である。
他国からの援助もなく、混乱の中で、
新しく国を再生して行くのは大変な仕事だろうと思う。
理不尽な想いが山ほどある中で、感情が渦巻く中で、
建設的に行動するのはよほどの精神が無いと
やってゆけるとは思えない。
しかしそれをやってのけたように、
かつやってのけているように今も見える。
詳細に見ればおかしなことも一杯あるだろうが、
大筋では国は大丈夫そうに見える。

ジェノサイドから4年後の1998年、
当時のアメリカのクリントン大統領が、
西側首脳としてはジェノサイド以降はじめて
ルワンダを訪れた。
しかもそれはルワンダ側が要請したから行った
のではなく、大統領の、つまりアメリカ政府の、
自主的な訪問だったという。
首都のキガリで“ジェノサイドの間不介入の姿勢を
とったこと”と“難民キャンプで殺人者を助けたこと”
をわびた。
その演説は非常に有名で、
Sometimes in April」という映画の冒頭に
そのまま出てくる。
クリントンはIDカードの廃止も呼びかけた。
今の新政府は、ツチもフツも関係なく「ルワンダ人」で
あるというだけで充分であるとして、
 IDカードの部族名は廃止している。
難民化したジェノシダレたちにも、
リーダーであった人以外はとがめない方針で、
祖国に帰れと呼びかけ、元居た土地を保証し、
百万をはるかに越える数の帰国者数となっているそうだ。
 
私が訪れた2011年の春に聞いた話では、
アメリカの罪悪感は相当なもので、
ピースコー(Peace Corps)という組織から100人を超す
援助隊員が来て常時活動しているという。
ルワンダは四国の1・5倍くらいの
小さな国だというのに。
そして日本のJICAの青年海外協力隊も多く、
 40人近くを送っているそうだ。
韓国もKOICAというJICAに似た組織で
やはり40人近くを協力隊として送り込んでいる。
キガリで何人か見かけた。
(ピースコーはケネディ大統領の発案で1961年設立。
  国際ボランティア活動機関米国平和部隊のこと。)

旅行中はずっと「ジェノサイドの丘」
フィリップ・ゴーレイヴィッチ著(柳下毅一郎訳 WAVE出版)を読んでいた。
色々なことを考えさせ感じさせる名著だと思う。
そして帰国してから、
一体どうしてこんなことになったのか、
人間とはどういう生き物なのだろう、
もっと深く理解したいと思って、
本や映画を観ている。

ルワンダに少しでも関係した人には、
同じ思いの人が多いことだろう。
人々の、殺人者への豹変を説明できるものは何だろうか。

様々な視点があるが、「現代アフリカの紛争と国家」
(武内進一著 明石書店出版。これは、2007年度 東京大学の大学院に提出した博士論文に少し加筆したもの)
という本の土地制度に着目した説などは、
かなり納得した。
実際にルワンダの耕しつくされた土地を見ていると、
土地制度に縛り上げられているために、
その土地を分配する行政の上の者に従うということは
納得できる。
でも知人の殺人を命じられて、
躊躇しないとはどういうことなのだろうか。
異常なことではあったが、
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という心理も
働いていただろう。
しかしそうだとしても・・・ひどすぎる。
旅行で人々と少しだけれども接してみて、
その真面目さ、素朴さ、善良さ、
人懐こさは充分あるのに、なんで?という感じだ。
本当に多くの人が言うように、要請されたとき、
自分の頭で考えないからだろうか、とも思える。
でも本当の原因などわかるのだろうか?
きっといくつもの事象が折り重なって
起きたのだろうから…。


読んでくださってありがとうございます。
12章はちょっと長かったですね。
次回13章はまた12月の今頃に掲載します。
お楽しみに!

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