井上のルワンダ旅行記




6.文字が無いということ


★ 2017年5月22日更新

 (1からの続きです。初めてお読みの方は≪はじめに≫からお読みくださいね)

 ルワンダ人のすべてがキニアルワンダ語を話す。
 ところが、R氏からキニアルワンダ語には文字が無い
 と聞いた。
 1920年ごろ、ベルギーの植民地になった頃、
 教会の布教が始まりフランス語が入ってきて、 
 フランス語による教育が始まったが
 それを受けられたのはごく少数のエリート達だ。


その後、フランス語の音を借りて、

今はキニアルワンダ語の表記方法は存在する。

だから道で見かける看板は、

たいてい三つの言葉が並んで書かれている。
そして国として公式の言語は、
植民地になってからはフランス語だったが、
 2008年から英語になった。

しかし、地方に行けばキニアルワンダ語しか
話せない人々が普通だという。
 R氏が私に質問する。

「文字が無いということはどういうことが起きると思う?」

想像で私は、

「情報が得られない、だから知識・技術を手に入れにくい、
すると経済的格差が生まれる。
~ん、他にもたくさん不利だと思う。
複雑な表現はできないし、
思考は言語に規定されることがあるので、
思考が深化しない・・・」

などのことを並べたてた。

「そうだね。でも、
文字が無いということは文字で教育しないんだ。
すると、もっとすごいことが身近で起きるけど、
それは想像できる?」

と聞かれたがわからない。
それは何かと問うと、

「教育を受けなかったら、文字が読めない。
ということは、数字も読めないんだ。
数字が読めない、わからない、ということはすごいことだ。
僕もここに来てわかったよ。
ここは熱心なカソリック教徒が多く、
日曜日ごとにみんな必ず教会に行く。
だから7日はわかるんだ。
水曜日と土曜日に市が立つから、
その間の日数は経験的にわかる。
でもそれを超えると、だんだんわからなくなる。
一年365日なんて数字はわからない。
なぜならここは日本のように季節がない。
農業のために暦もさほど必要ではない。
スコールのある雨季が3ヶ月くらいあるが
そんなにたいしたものでもない。
一年中25度前後。
殆ど同じ気候だから、一年なんて特別な意味はない。
従って親も自分の年齢がわからない。
子どもの年齢もさだかでない。
それで、外国から来た保健師が子どもの年齢を知るには、
その子が生まれた年はジャガイモが豊作だったか、
インゲンが不作だったか、
などの質問を重ねて推定することもあるそうだ。
だいたい、どこの家に行ってもカレンダーなんて無いよ。
たまにあると、2001年のだったりする。
単なる飾りなんだ。」という。

 後日Nさんという保健師に会った。
彼女いわく

「ここではたくさんの子どもが生まれる。
低体重の子が多い。
それで体重を増やすために特別な離乳食を母親に与えて
何日後かに体重を量りに来させる。
○○グラム増えたよ、と伝えても何にも感じないみたいだ」

という。
思うに、数字で言われてもピンと来ないのだろう。
生まれました、何グラムでした、
というのは日本ではまず聞くことだし、
 2500グラムを切るかどうかは注目だ。
そしてお乳を飲ませて一週間目、2週間目、3週間目・・・で
どれだけ体重が増えたというので新米ママは一喜一憂する。
ここルワンダでは体重変化を数値で告げても
ピンと来ないようだ、という。
あまりに体重が少ないときは、
きちんとケアがあるかどうかは命の分かれ目になるのだが、
数値の基準を知らないので
危険をあまり理解できないということのようだ。

実際、保健師一人が会うケースのうち、
 1週間に2~3人の赤ちゃんが死亡し、
一年に2人くらい産褥で妊婦が死亡するという。
それを防ぐために青年海外協力隊の保健師として
 Nさんが来ているというわけだ。

新しく保健所の仕事として取り組むために、
政府は妊産婦の入院施設を外国からの援助で作ったという。
それを見せてもらった。
びっくりしたのは、妊婦さんの分娩室と入院施設があるが、
食事は家族が1週間泊まりこんで作るのだそうだ。
そのために家族用の台所が別棟で建っていた。
家族のふれあいにとってはとてもよさそうだと思った。
しかし、妊産婦のためのトイレは斜面の下の別棟にあって、
草原に人の足跡が作ったような細い道があって、
そこを歩いて行く。
寝室のある棟からは15メートルくらい離れており、
街灯は無いので夜は懐中電灯で行くことになるが、
日本人である私は危なくないのかと考えてしまった。
妊婦が転んだらどうなると考えないのだろうか?

 トイレ棟と寝室棟の距離を見ながら、
日本では本当に人々は守られているのだということを痛感した。

 一方で私の頭から、IT立国という言葉が去らない。
こんな状態でIT立国ってどういうことになるのだろうか?
目の前の施設を見ながら、考えてしまう。


(6に続く)

 


4.その少年の水事件

★ 2017年411日更新

 (1からの続きです。初めてお読みの方は≪はじめに≫からお読みくださいね)




 ルワンダは丘の国。
だから水は丘と丘の間に谷、または湿地地帯として存在する。
しかし大きな川はそんなに見当たらない。
しかも家は段々畑の間、つまり丘の上または斜面にある。
ということは水の存在より高いところに家はあるが、
水道設備は、ほぼ無い。
となると水をどこから供給するかというと雨水をためていて
そこから汲むか、ずっと下にある水場に汲みに行くことになる。
水は貴重なのだ。
道を歩いている大人はほとんど何も持たず歩いているが、
学校帰りでない子どもは必ず黄色いポリ容器をもって
歩いているので、水汲みは子どもの仕事だとわかる。
水はとても重たいものだ。 
R氏から聞いた話は、水事件とも言うべきものだが、
水の貴重さとそれを得る不便さから起きたことなのだろう
と思う。

 R氏の住んでいる大学の敷地の外には
一般の農家の人が住んでいる。
大学はガルディアンといういわば守衛さんが守っている。
とても人懐っこくあいさつしてくれて、
ニコニコしているが、その雰囲気から、
私には日本の守衛さんより権限がありそうだなあと思えた。
やはりそれは当たっていたようだ。

ルワンダには雨季と渇水期があるが、
その水事件は渇水期に起きたことだった。ある日、R氏が歩いて宿舎に向かう途中で、あの卵を売りに来ていた少年が、ガルディアンに殴られ蹴られ棒で叩かれて、
かなりの怪我をしたところを目撃したという。
小学校4年生くらいの男の子を、
本当に本気で殴っていたそうだ。
聞くと、大学の中の水場に水を盗みにきた現場を
押さえたのだ、許せない、とのこと。
ペットボトル4本分くらいの容器一つなのだが・・。
その子が汲みに行くべき水場は決まっていて、
少し遠いのだそうだ。
渇水期なのでいつもの所より遠かったのかもしれない。
だからその子は、家の近くの大学を囲む有刺鉄線の破れ目
をくぐって入り、大学の水ためタンクから水を失敬したのだ。
たしかに悪いことだけど、
あまりのガルディアンの本気の暴力に、
 R氏はショックだったという。

「ちっちゃいんやで、その子は。
言えばいけないことはわかるよ。
あんなひどい殴り方は僕にはわからない。
ショックでしばらく眠れないくらいだった」

R氏にとっては、その暴力がよほどショックだったらしく、
何回も言っていた。

私には、まじめな国民性を感じさせられた話だった。
同時に、暴力が、この国ではすぐ起きてしまうハードルの
低さを感じた。
この二つは、この国で、あの大虐殺が実際に起きてしまう
素地であるのかもしれないと思った。


 

5.言語



 大学構内を一人で散歩していて、話しかけられたので、
下手ですが、と言いながら本当に下手な英語で答えた。
すると相手も、僕もあまりできないが・・といいつつ
英語でにこやかに話す。
私よりはるかに流暢に話し、
気持ちのいいとてもハンサムな好感の持てる紳士だった。

その後宿舎に帰ると、
 R氏が大学の中を案内しようと言ってくれたので、
喜んでついていった。
同僚などへの紹介やコンピューター室、図書館、講義室、
保健室などに案内してくれた。
建物はすべて平屋でどれも美しい。
庭も植樹に気をつけていて、きれいだ。
大学生は約3,500人で、平均年齢は30歳だという。
今、国が変わりつつあり、
いい職業に就こうと思うと学歴が非常に大切で、
そのために学びなおそうとして、
一度働いた経験のある人たちが結構入学してくるのだという。
回っていて気がついたのは、
みんなフランス語で話すということだった。
図書室の本はフランス語版の物が多い。
新しい図書はほぼ英語版だが、
これらはすべて先進国からの援助だという。
大学内の公用語は英語だと聞いていたが、
これではフランス語の方が優勢ではないか。
なんだか変だ。

そして次にR氏の上司に会った。
英語は私より少し上かなあというレベル。変だ。
英語が公用語の大学の先生でしょ? 
あの飛行機で会った政府の美しい女性は、
英語が正式の言語となったので、
 IT立国は成功すると言っていたが…。
気になったのでR氏に尋ねる。もっと驚いた。


「先般から会っている人たちはフランス語だったやろ。
みんなフランス語やねん。
政府は英語を公用語と決めたから、
大学の教員に英語を強制的に習わせているんや。
英語の級のあがった者が何名いるかによって国からの
補助金の額が違ってくる。
だから大学は必死やで。
英語の話せる教員の割合が多い大学が有利なんや。
あの上司の先生は、コンゴでフランス語で育ったので、
最初僕が来たとき英語はできなかったけど、
今は少しましになった。
あの先生も必死でやっていると思うよ。
生活がかかっているから。」


「あの先生はIT関係の方よね。
私くらいのあの英語力で授業ができるの?」


「ちょっとむつかしい。
でも彼は頑張っている。
表現が難しいところはフランス語になってしまっているよ。
で、ちょっと微妙なことに気がついて、
僕はフランス語をここに来て必死で習得して
なんとか話せるようになった。
何が微妙かというと、僕は英語を話すやろ。
だから英語で授業ができてしまう。
(実際彼は電話だと20分近く話したら
ネイティブでないと見破られるという)。
それはどうも上司と部下という関係ではよくないように
見えたんや。
で、上司のいる所ではフランス語で話すようにしている。
これはきっと正解だったと思う。
僕一人のときは、英語で教えて、
同じことをフランス語で言って、
必要ならキニアルワンダ語で話す。
そうしないとなかなか相手はコンピューターのことを
理解できないんや。
英語を話せる人はまだ少ないから・・・」

聞いていて、これはなかなか大変だと思った。
知識伝達以前に言葉で格闘しないといけない。
でも、ふと思い出して、


「はあ~、3ヶ国語を使うんだ。
でもさっきとっても英語を流暢に話す先生に会ったよ」


と言って見掛けの特徴を言うと、


「それは英語の先生やからや」


これには全く驚いてしまい笑い出してしまった。

なんと! いやー! あの英語の先生、
私のレベルに合わせて話してくれていたのだ。
チャーミングな筈だった。
そんな仕掛けをするなんて。
あとでもう一度彼に出会ったが、彼はゲラゲラ笑っていた。

しかし、IT立国なんて夢ではないのか?
 大学の言語レベルがこの状態だ。
あの政府の女性はこの実態を知っているのだろうか?
 NHKの取材陣はどうだったのだろう?

(6に続く)


3.ルワンダの少年のこと


★ 2017年3月18日更新

 (1からの続きです。初めてお読みの方は≪はじめに≫からお読みくださいね)




 R氏は仕事に出かけ、私がひとりで家に居たら、

小学生3,4年くらいの少年が尋ねてきて、

R氏はいるか?」

というので

「留守だよ」

と答えた。

それからがどうしていいかわからなくなった。

なにしろそこから先の相手の言葉がさっぱりわからない。

英語のようでもあり、フランス語のようでもあり、

でもキニアルワンダ語かもなあ?

ああ、この国で私が一人で放り出されたら大変なことになるぞ、
と予感が走る。
そのうち体格の良い年かさの少年が加わった。
私より背が高い。
少し怖い。
いろいろ手ぶり、表情で、
なんだかもう一度来るけどいいかと言っているのだと思えたが
部屋に入ろうとする。
怖さが増す。
慌てて、指を4本立て、R氏は4時ころ帰ってくるだろう、
と身振りと共に言ったら、
それは通じたらしく4時頃来るつもりになったようだ。
やれやれ、と思ったらエッグという言葉を聞き取った。
え!卵! 何、それ? 丸いやつ?と指で卵形を作ると頷いている。
卵がなんの関係があるのか?
どうこたえたらいいか不明。
往生して、
とにかくさよならの意味になる言葉をいろいろ並べ立てた。
少年は帰っていこうとしたので、ほっとした。
するとそのときR氏が帰ってきた。
私には救世主。
なにやら話してR氏がお金を渡したら彼らは帰っていった。
無心だったのか、と私は思った。
基本はキニアルワンダ語で話して、
ところどころに英語が入っているのだそうだ。
しかし、1時間くらいしてさっきの2人が卵を二個持って現れ、
 R氏はをそれを受け取り、なにやら雑談をして笑い合い、
それから少年たちは帰っていった。
無心ではなかったのだ。
少年たちに関して聞くと、
R氏が畠を耕している近くの村の子だけど、
ときどき卵を売りに大学の中に来るので買うのだという「小遣いかせぎやろうなあ」という。
私が
「先にあなたはお金を渡したよね。それから1時間もして、
 彼らは卵を二つだけ持ってきたけど、
 結構時間があいている。
 先にお金を渡してもこの国のモラルは大丈夫だという
 ことなのよね」
と聞くと、
「そう。この国の人々は大丈夫。
 カソリックの力が強く働いているからだと思うけど、
 お金をごまかすとか人をだますとかそういうことは
 ない感じだよ。」
 とのこと。
他のアジアやヨーロッパ旅行の経験からは、
旅行者は鴨にされるかだまされることを
ときどき警戒しなければならないが、
この国はそんなことは無いという。
このことはその後ずっと旅行している間中、
私にもわかってきたことだった。
ずるくない、ここの人々は。
信頼していいのだ、と。
この安心感はとてもいい。
後日首都キガリで一人旅をしているときに、
片道30分のタクシー往復を交渉して乗せて
もらったことがあったが、
目的地で私が3時間過ごす間、相手は基地に帰った。
そのときにお金を払おうとしたら、
次に迎えに来て降りるときに払ってくれれば良いという。
そして約束した時間きっちり迎えに来て
もとの場所できちんと降ろしてくれた。
カソリックの宗教の力かもしれない。
お金に関して言えば、私にはもう一つ好ましい事がある。
この国には幸い宗主国であったベルギーが、
チップという制度を持ち込まなかったらしい。
おかげでとんでもないときにお金をせびられることはない。
インドなどへ行くと、うっかり道を聞いただけで手を出される。
一人にチップを渡すと
そこらにいた人がわっと自分は○○をするから、
と暗にお金を要求して群がってくることさえある。
それのないルワンダは、だから安心して町を歩く事が出来た。
チップ制度は人を卑しくすると私には感じられる。
何かをしたら褒美、ということだが、
それはやがて褒美がなければ動かないという人々を育てる。
褒美を得るためにずるくなる。
人に対して操作的になるのだ。
よく子育てで、親がこどもに勉強させるために、
テストで100点取ったら100円、80点取ったら80円あげる、
などと褒美でつっているときがある。
当面小さな子供は喜んで勉強するし、
良いことのように見える。
しかし長ずるに連れて
もっとお金を親からださせるために何をすればいいか
と頭を使い、お金が欲しくないときは何もしなくていい、
家の用事でもお金をくれないのならしなくてよい、
などとおかしなことになる。
場合によっては人に対してとても操作的になり、
それは親にも向かうため親のほうがやがて困っていく。
子育て相談などの背後にそういう子育てがあることが
珍しくないことを私はよく経験する。
ルワンダの人にずるさがないのは、
チップ制度がないことも関係しているように思えるのだ。
そして滞在している間に私が理解したのは、
ルワンダで何かの定期の仕事をゲットしている人は、
おそらく日本の長時間労働に匹敵するくらい、
実に長時間まじめに辛抱強く働くということだった。


★ 
2017年2月16日更新

 (1からの続きです。初めてお読みの方は≪はじめに≫からお読みくださいね)

2.みどりの大地、丘また丘


 ルワンダの首都キガリに夕方着いた。
 R氏からは、仕事で迎えに行けないときは自分で
ホテルに行ってくださいと言われていたので、
フランス語のできない私は、
一人で太刀打ちできるか不安だった。
着いてみると飛行場は小さくて安心した。
案ずるより生むがやすし、とはこのことだ。
ハブ空港のドーハのようにむちゃくちゃ大きいと、
自分がどこにいるのかわからないが、
ここは小さいので大丈夫と思っていたらR氏の姿が見えた。大安心。


「今日、ちょうどJICAの青年海外協力隊の
新メンバーの歓迎会があるけど、参加する?」

と尋ねられて、一も二も無く

「行きたい!」

と答えて参加させてもらった。
これは偶然に歓迎会のある日に私が着いたからだが、
あとから考えると、これもとてもラッキーだった。
各地で、隊員の人たちに助けてもらうことになったのだ。
言葉の通じにくいこの国で、2週間なんとか過ごせ、
国の一端を少しは理解できたかも、
と感じたのはそのおかげだ。
とっても感謝。


 その夜はキガリのホテル(中級だとのこと)に泊まり、
 翌日午後R氏の働いている東部の都市に向かう。
 そのためキガリのバスターミナルに行く。
 ほこりっぽく、人々でごった返しており、
 右を向いても左をみても外国人はほとんどいない。
 バスターミナルと言っても、
 バスのはいる空間はどろんこでデコボコ。
 これ雨降ったらどうなるの? 歩けるの?という感じだ。


ルワンダに行った日本人に
「ルワンダには黒人はたくさんいるのか?」
と尋ねた日本人がいると聞いた。無理も無い。
アメリカの大統領ブッシュが
「アメリカにも黒人はいるが
アフリカにも黒人はいるのか?」と言ったとか。
奴隷として黒人をアフリカから大量に連れてきた国の
大統領にしてこれだ、と苦笑いしたことがあるが、
本当の話ではないかもしれない。
しかしよく出来たジョークだ。
そう、ルワンダは100%黒人の国である。
統計の取り方で変動はあるが、
フツといわれる人々が8割強、
ツチといわれる人々が1.5割、
ピグミーでトワという人々が0.5割弱くらいだそうだ。
ツチとフツはほとんど見分けがつかないという。
日本ではツチ族、フツ族と言っているが、
本来は部族名ではないようだ。
ヨーロッパ人の植民地になるまでは、ツチ、フツ、トワ
と呼ばれる人々が居た、ということらしい。



目的地までバスで二時間半。
マイクロバスが正式のバスであり、
 4人がけ20人くらいがぎゅうぎゅうで乗る。
定刻で出発。飛行機から降りたときも驚いたが、
自分が無知だったこと、
あるいは先入観が強いことがよくわかった。
砂漠があると思っていたが、そこはみどりの大地だった!
  行けども行けども、緑の丘が幾重にも連なる。
なんと美しい国!


実は2週間の滞在中、
中部・南部・東部の一部を旅したことになるのだが、
どこまで行っても平野は無く、
様々な色合いのみどりいっぱいの大地。
それは、丘・丘・丘だった。美しい!美しい!美しい!
何度でも繰り返したいくらい。
壮麗な風景といってもよい。
ルワンダは別名「千の丘の国」とも言われており、
アフリカのスイスとも言われているそうだ。
とても納得。
バナナの林が広がり、
ユーカリの木々の葉が銀色に気持ちよく輝き、
適度な風にゆすられている。
道は、幹線道路以外は赤土の道だ。
幹線道路のほうは、地方によって少し状況は異なるが、
  1980年代に政府が中国から技術者を雇って整備していて、
  歩道付きアスファルト舗装の道は丘の背を二車線で走り、
中央アフリカでは一番いい道だそうだ。
そこを80キロのスピードでバスで走るのは結構快適だ。
バス停は殆ど無い。
そして窓の外には、丘のてっぺんまで、
もうこれ以上耕せないくらい続くみどりに覆われた
段々畑。
日本の夏の風景に重なる。
いつまでも見ていたい風景だ。
ルワンダは四国の1.5倍くらいの面積だという。
北部に行くと世界でも有数のゴリラのいる森林地帯であり、
火山があり、
東部に行くと野生動物のいるサバンナがあり、
南西部のコンゴとの国境に行けば原始林のある
険しい森林地帯だというが、
私の訪れたところは豊饒の土地だった。
神々の愛でしところ。


作物は、そこここにバナナのプランテーションで
実がたわわに稔り、じゃがいも、インゲン豆、
さつまいも、キャッサバ(サトイモの類)が見える。
家は適当な距離はなれて点在する。土は赤土。
とても土壌がいいそうで、何も肥料をやらなくても、
ほらこんなにレタスができる、キャベツが、白菜が、
と青年海外協力隊のある人が畑を後日見せてくれた。
本当にレタスはびっくりするほど立派。
「何もしなくてもできるよ~」と言っていた。
でもルワンダ人はそんなに豊富に野菜は作らないようだ 
  作らなくても食べていけるからか? 
しかし現金収入はあまり無いようだ。
自給自足に近い。



R氏の家に4日泊めてもらった。
R氏は、私立の大学でコンピューター使用技術を教える
仕事をしている。
彼の住んでいるところは、大学の構内だ。
一戸建て平屋で職員用の住宅だというが、これがすごい。
 3つの部屋とトイレ付き洗面所の小部屋があるが、
すべて土間だ。
部屋は結構広く、壁はブルーのペンキで塗られているが、
  ベッドと机以外は何もない。
ガランとしている。土足でそのまま入室。
一応冷蔵庫はあるが、停電があるので、
冷凍室が氷解すると水が床に滴る。
水道は無い。
雨水をためたタンクから水を汲んでくるのが重要な家事と なる。
 R氏は「これが結構メンドイ、時間がかかる」という。
 トイレは一応概観は水洗トイレの様子をしていて
 排水はするようだが、
 ほとんど水は自動供給されない。
 バケツにためた水をコップなどで流す。
 もちろん風呂は無い。
 シャワー用のスペースのつもりだろうな、
 という場所があるので、
 そこで行水しようと思えばできるが、
 湯を沸かすのがこれまた一苦労。
 火元は電気コンロひとつ。湯沸しポットひとつ。
 それですべて。流しは無い。
 飲み水はそのまま飲めないので、
 ろ過したものを必ず沸かして使う。
 従って食事を作るのも一苦労。
 しかしこの停電回数の多さはどうなんだ、
 と思うくらい多い。
 これでIT立国?とさらに私は首をかしげる。



慣れないと作業が大変だから、
R氏は私をかばってくれて、家で食事をするときは、
すべてR氏の作ってくれたものを
私は食べさせてもらっていた。
何か手伝うことがあれば手伝うよ、と言ったら、
私の仕事を考えてくれた。
それは精米技術が低いため、
お米に混じっている籾や石を選別して捨てること。
インディカ種の細長いお米だが、脱穀が悪く、
食べると必ずガジッと音がして、
口の中がジャリジャリする。
気持ちよく食べようと思ったら、
石と籾をよりわけて捨てるのは必要な仕事だ。
石・籾拾いを実際にやってみて、
これは重労働だと思った。
それらを見つけやすいように小さな入れ物に
米を小分けしながら入れ、目で見て分別。
一人分のお米をきれいにするのに1時間近くかかるのだ!
 2人分で2時間! 
ルワンダ食にはお米が普通に出てくる。
その背後にこういう労働が隠れているのだ。
うなってしまった。

 「これ、脱穀技術を日本から伝えたほうがいいよ~、
  JICAがなんとかしたら?」

  と私はR氏を説得にかかる。 
   R氏いわく、

 「そうやなあ~、でもさ、ここ、結構人々はひまや。
  人はあふれている。仕事が無い。
  だから下手に脱穀技術を入れたら、
  仕事を取り上げることになるかもなあ…」。


 私はまたもや唸ってしまった。
  そうやなあ~という気もする。
  それは人々の光景を思い出したからだ。
  それは、
 “暇ソウ”というR氏の解釈を正当化する光景なのだが、
  次のようなことだ。


この地方都市に着いたのは日曜日だった。
地方都市と一応言うが、
日本で言えば人口おおめの山村の感じと思えばいい。
丘のてっぺんを太い舗装道路が走り、
車がかなりのスピードで走る。
バスを降りてから25分くらい歩いて
この家にたどり着いたが、
人々が舗装道路の脇の赤土の歩道をゆったりと
歩いていた。
その数は多く、しかも、道がほぼまっすぐなので、
ずーっと見渡せる。
一目50人くらい歩いている、といえばいいだろうか。
それも携帯電話以外は何も持たず、
ぶらぶらと友人や家族や子供たちが、
ゆっくりゆっくり歩いているのだ。
最初それは日曜日だからだと考えていたが、
月曜日も火曜日も水曜日も、しかも時間を選ばない。
朝早くだろうが夕方だろうが、何時に歩いてみても、
一目50人くらいが歩いているのが常時目に入る。
ときどきたむろして談笑している。
床屋はギャラリーが一杯で、
昼も夕方も人がたくさん居る。
人々は働いているのだろうか?という疑問が頭をよぎる。
しかもめちゃくちゃ人々の性格はオープンだ。
すぐ話しかけてくるし、
しかも質問すると大歓迎されて
正直に話してくれている感じを受ける。
もっとも、ほとんどがキニアルワンダ語なので、
私はすぐお手上げ。
たまにフランス語に切り替えてくれるが、
私にはわからないとわかるとそのままになる。
まれに英語に切り替えてくれる人がいて、
そういう人はたいてい学校の先生だったり
役場の人だったりする。
昼の2時ころ話かけてきた身なりのいい女性は
小学校の先生だという。
少し話したあと尋ねてみた。

「今はお休みをとっているのですか?」

 と尋ねると、

「いや、仕事の時間だ」

 という。先生なのに?という思いがあるのでさらに問う。

「授業は無いのですか?」

 というと

「ある」
 という。

「いや、でも今、道をこうやって私と一緒に歩いていて
 お仕事は大丈夫ですか?」

 と尋ねると

「心配するな」

 と返ってくる。

「校舎はどこ? 子供たちはどうなるんですか?」

 と訊くと

「大丈夫。心配ない」

 えー!まったく謎の人たちだ。 
  R氏が言うには、

「みんな、ひまやねん」

 ということになる。
 子ども達はだいたい4時頃に下校していた。


私はこういう時間の使い方をルワンダ時間と呼んだ。
このルワンダ時間はすごくって、
 R氏も仕事だと言って出かけたにもかかわらず、
上司が出てこないので仕事にならないと言って、
昼前に帰ってきた日もあった。
ほかの隊員の方をたまたま仕事場に訪ねたときも、
「お客さんが居るなら今日は帰っていいよ、と言われた。
 ラッキー!」

 とか言って本当に職場放棄で、
 私をほかのところに連れて行ってくれて
 そのまま自宅に帰って、そのまんま過ごした。
 私もラッキーなんだけど、
 どうもそれはルワンダ国内では普通のことらしかった。




続く
 (お読みいただきありがとうございます。
  ご感想メールでくだされば嬉しいです
   次回は1か月後に更新いたします) 



≪はじめに≫


アフリカのまん真ん中にある国ルワンダ。

人類発祥ミトコンドリア・マザーの地。

それと未曽有の大虐殺が起きた国!

それくらいの知識で行って来ました、ルワンダ!

それはとっても気持の良い風の中にありました。

でも田舎道を私と一緒に散歩している人々は殺人者である確率の高さは抜群。

臨床心理士は手も足も出せない世界。

井上にとっては興味津々の国。

充分健康だった3年前に行き旅行直後に手記をすぐ書いて放置。

このままはもったいない気がして2017年1月末から 

Joyitのブログに連続で投稿していきます。

興味深いと思うので是非読んでね。







1.旅の始まり

 まだ冬のコートの要る3月下旬、関空から一人、旅立った。
カタールのドーハで乗り換えケニアのナイロビで乗り換え、
もうすでに15時間以上、
いやというほど飛行機に乗っていた。
そして、飛行機の通路側に座っていた私が
ケニアから飛び立った飛行機の窓越しの景色を見て、
「えっ! サファリ!?」

と思わず言ったら、隣の窓際の美しい黒人女性が

「イエ~ス!」

と言って私を見てにっこりした。
そこはアフリカのケニアの草原の上空だった。


私は、ナイロビ空港がサファリの隅にあるなんて
 全く知らなかった。
寝ぼけまなこで、ブジュンブラ経由ルワンダ行きに
 乗り継いだが、
飛行機が上昇したとき、
 意表を衝かれて興奮してしまったのだ。
そしてうっかり声を出してしまった。

でもこれが私には幸運だったと思う。
旅の始まりで、今から行くルワンダという国に関して、
興味を喚起する情報を其の女性からいただくことになったからだ。
飛行機の中は黒人ばかりと言っても過言ではない。
アジア系?と思われる人は片手でかぞえられるくらいしかいない。
日本人は私一人。
何語かわからない言葉がいくつも聞こえるので、
すっかり立ち往生していた私には、
少しでも言葉が通じるのは嬉しかった。
しかもルワンダについては、
十数年前に大量の虐殺が起きたということと、
子どものとき家族が虐殺される現場にいた青年の手記を
旅行直前に読んだこと(これがすごかったけど)と、
 NHKの一時間番組の情報しか知らないで出てきてしまった。

旅行案内書で全地球をカバーしていると思っていた
「地球の歩き方」にもルワンダはなかった。
出版元にも問い合わせたがルワンダのは無いという。
地図もまったく無い。
旅行会社が、東京のルワンダ大使館からA4のパンフレット
をゲットして送ってくれた。
それには、ルワンダの国の形の図形の中に、
小さくいくつかの地名が載っているだけ。
いわば、日本の形の図形の中に、
東京と大阪と京都の文字が印刷されているだけ、
と思ってくれればいい。
地図といえばそれが地図のすべてで、
実はこれだけを頼りに2週間過ごすことになった。
おかげで何の地理的予備知識もないまま
 飛行機に乗ってしまったので、
いったいどうなることやらと思っていた。
しかも公用語はフランス語だというが、
私はまったくフランス語を理解できない。
「私はフランス語が話せません」というフランス語だけ
しゃべれるという変な状態だ。
だから、たったひとりの知人R氏がルワンダの飛行場に
迎えに来てくれることだけを頼みの綱として
 出てきてしまったのだ…。
だから「イエス」と短く、私のわかる言葉!
 で応答してくれて、
ホント、嬉しかった。



 ごく定番の、「どこから?」「どこへ?」などという
私のたどたどしい英語にその女性は合わせてくれて、
ゆっくりと話してくれた。
なんと其の人は私が今から行こうとしているルワンダの政府
の役人だった。
 JICA(ジャイカ)の青年海外協力隊の知人がいるというと、
「国が日本のお世話になっている。ありがとう」と言われた。
別に、私は単なる旅行者で、
お礼を言われる筋合いはないのだけれども、
親近感を持ってくれたようだった。
出張で隣国のブジュンブラに行くのだそうだ。
小さいときからウガンダで育ち、
家の中はフランス語だったのでフランス語のほうがよく話せるが、
英語で教育を受けたので英語も大丈夫だそうだ。
子供のときはキニアルワンダ語で話していたので、
それもできるという。
(この三つの言語については、
私はその後何回も考えることになった。)



関空を出るときに、誰かにあげれば喜ばれるもしれないと思って、
私の好物の羽二重餅の小箱を三つも買ってきていた。
それを開けて、「食べますか?」というと
 すぐつまんで食べてくれた。
其のとたんに「おいしい! これは何か?」と目が輝いた。
米と砂糖で作っているというと、ますます目が輝き、
熱心にその作り方を訊く。
そして「ルワンダにも米と砂糖はある。ならば作れるだろう。
これはルワンダでも大人気になる。こんなにおいしい!
作り方を教えてくれる人を是非日本から派遣してくれるように、
 JICAの知人に言ってくれ」と熱心にいう。
彼女とブジュンブラで別れる時に一箱差し上げると、
有頂天になって、大事そうに抱えて飛行機を降りて行った。

あとからわかったのだが、ルワンダでは砂糖は貴重品で、
甘いお菓子は大人気なのだそうだ。

思うに、羽二重餅はひょっとしたら外国に大々的に売り出せる商品なのかもしれない。
過去の経験でも、オイシイ! コレハナニカ?
という感じの方が多かったように思う。
材料の見当もつかず、食感は面白く、おいしい、と。



さて、彼女との話をもう少し書いてみたい。
私は質問してみた。

「日本のNHKスペシャルというテレビ番組でルワンダのこと
 が放映された。
 それによると、
 ディアスポラと呼ばれる外国から帰国した人たちを核にして、
 ルワンダはIT立国として進もうとしている、ということった。
 その放映は正しいか?」

と。すると彼女は

「その取材は知っていた。その通りだ。」

という。それで私は

IT立国にルワンダはなれるとあなたは考えているか?」

と尋ねると、

「絶対になれる」

と答えた。

「その根拠は何か?」

と再び問うと、

ITは英語が主流の世界だ。
  2008年からルワンダは英語を国の正式の言語として指定した。
 小学校から全部、英語で教育しているので絶対にIT立国は成功する」

という答えだった。

この時点で私は首をかしげてしまった。
 IT立国は英語だけの問題ではないと思うからだ。
一国の公用語をフランス語から英語に変更するというのは、
短期間に出来るはずも無く、様々な困難を伴うはずだ。
たとえば、日本である日政府が「これからは英語の世の中だ。
来年から公用語は英語にします」と宣言すれば、
蜂の巣をつついたような騒ぎになるだろう。
考え込んでしまうなあと思ったが、其のとき、
彼女がまさにウガンダからのディアスポラなのだと気がついた。
 IT立国を進めている立場だ。
 できないと言うわけが無い。
 しかしそれにしてもその希薄な根拠が気になった。



私がルワンダに行こうと思った理由は、
この女性の話に関係がある。

旅行前にルワンダについて私が断片的に新聞で知っていた情報は、
もう14,5年前(=阪神大震災の1年位前)のことであった。
ツチ族とフツ族が争って、
親類同士、知人同士の近隣に住む人々の間で虐殺が起こり、
その死者の数が、たった3ヶ月で100万人近い、
いや、超えているかも、というものだった。
しかもその武器はナタや棍棒という原始的なもので、
近代兵器ではないという。
ということは、
 国民の相当数が直接血を見る殺人者でなければならない。
なぜそのような途方も無いことが起きたのか?
とその当時、思った記憶がある。
しかし、そんな大事件でも、私は自分の日常に関係なければ、
表面上は忘れていた。
何しろアフリカは遠い国だ。
しかし、R氏がルワンダに行くと聞いたとき、
 R氏のことを大丈夫なの?と心配した。
そして、意識の底の方から、
なぜその大虐殺が起きたのかという疑問が再び沸いてきたので、
R氏が其の国にいる間に訪ねようと思ったのだ。
私の歳を考えると、
 こんなチャンスはもう無いかもしれないからだ。

主婦ベースだった私は、
思い立って60歳になってから臨床心理学の大学院に行き、
今は臨床心理士として仕事をしているので、
臨床心理学の周辺に居るのだが、一体この学問を学ぶと、
何ができるのだろうかと思っている。
この分野にいる私が、
そのような圧倒的な大事件に連なる過去をもっている人に
 出会って、何かできるということはあるのだろうか?
想像すらできない。
しかし何はともあれ、
予断を持たずに行けるときに行ってみようと思ったのだった。
行動しながら考えよう、手も足も出なくてもいいから、と思った。

 

NHKの“IT立国を目指すルワンダ”
 についてのテレビ番組を見たといっても、
旅行前は、細かな事情を私は全く知らなかった。
近親同士の殺人で国民の一割もが殺される事件が起きたとき、
そのショックと憎悪感情は、どのように処理されて、
国民は、国家は、立ちなおる事ができたのだろうか?
とうてい刑務所にすべての犯人を入れられるような数ではない。
政府のトップから、つまり国策として、
 末端の農民や貧民まで、
国民の何百万人もが関わったかも、
 といわれている虐殺だからだ。
誰がその事件を終息させ、その後に、
一体どういうリーダー達がどういう政治をすれば治まるのか、
または治まっていないのか? 
人々はどうやって立ち直り、
どうやって日常を過ごすことができるのか? 
疑問百出である。
一言で言えば、その国はどうなろうとしているのか? 
どうやれるのか? 
それに興味があったのだ。
出かけて、「自分の目でみるべし」
その思いだけで旅に出たのだった。




そして飛行機の彼女に出会ったのである。
多分、親が昔に難民になってウガンダに行き、
彼女はそこできちんとした教育を受けて、
国を立て直そうと帰ってきたのだろう。
“外国で高い教育を受けた人、ビジネスで成功した人、
そしてルワンダに帰ってきた人で、今国を立て直そうとしている。
そういう人を総称してディアスポラという、”
とNHKは言っていたから。


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